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【2026年7月19日(日)札幌市南区、硬石山】
それは死の匂いだった。
死臭ではなく、死をもたらす匂い。
彼の、危険を嗅ぎ分けることに特化した嗅覚が、生い茂る草木を縫ってそよぐ風に、その危険な香りを検知していた。
その死の匂いを、彼はよく知っていた。この山で生まれ、迎えた11回目の夏。その間、いつも身近にあったその匂いは、この山そのもの、この山を支配する、山の神の匂いだ。
彼は仲間たちの誰よりも長く生き、経験を積んできた。仲間たちの数は夏を迎えるごとに増え、彼らの世界は拡大していった。若者たちの中には新たな食糧を求めて山を降りて行くものもいたが、彼は山に留まった。
彼はもう老齢だった。数年前のように敏捷に飛び跳ねることはもうできない。仲間たちの誰よりも強く大きかった角も、この夏はかつてのような威風が見られなかった。
だが、彼が自らの老衰を気に病むことはなかった。草を食べ、腹を満たし、眠る。そして夢を見る。若い頃の夢を。
誰よりも高く、広く、太くて強かった彼の角は、他の雄たちを蹴散らし、雌たちを魅了した。覚えきれないほどたくさんの種を播き、世界を広げ、若者たちを指導した。
彼はこの森の王者だった。
季節は巡った。
夏が終われば、戦いの季節がやってきた。教え導いた若者たちが育ち、強くなって彼に挑んできた。長い間、彼はその巨大な角と体躯、そして培ってきた経験で若者たちを退け、王座を譲らなかった。戦いの後は、勝ち得た責務を果たした。彼の王国は繁栄したが、彼はただ本能に促されただけだった。
そして、災厄の季節。
火を吹く棒を手にした悪魔たちが森にやってくる季節。彼は仲間たちを導き、逃げ、隠れた。多くの仲間が悪魔たちに殺され、血を抜かれ、バラバラにされた。
死の季節はそれで終わりではない。
火を吹く棒の悪魔たちよりも静かに、だが確実に訪れる冬。白い厳寒の季節。仲間たちと身を寄せ合い、彼は耐え忍んだ。春に芽吹くたくさんの食糧。夏に誕生する新しい命。秋と冬に失われた命を補って、なお余りある新しい命。
それらの季節は繰り返し、彼の仲間は増え続けた。彼は永遠と思われたその円環を誰よりも長く巡り、この森で跳び、食べ、眠った。少しだけ白濁した、深く濃い茶色の瞳で、彼は彼自身と仲間たちの生の営みを見つめてきた。時には、他の誰かと一緒に、そのほとんどを。
全てではない。森の王者である彼をもってしても、理解も予測も及ばないものがたったひとつだけあった。それは生の季節の円環に、いつも突然打ち込まれる死の楔、死の匂いだ。
飢えや病、老いて衰えて死ぬ。悪魔たちの火を吹く棒や、石の道で殺される。そして、山の神の目にとまり召される。この山や森で生きる以上、避けられないことだった。だが彼は11回目の夏を迎え、まだ生き残っていた。
山の神。
それはいつも、何の前触れもなく現れる。夏でも冬でも、昼でも夜でもお構いなしに。
まず死の匂いがして、そして草木を踏む音。足音。重たい、破壊の音。
森の王者も、山の神には抗えなかった。神の存在を感じたら、じっと祈るのみ。気づかれないように。神の鼻、神の耳に知られないように。それでも神の目に見られてしまったら、後はただ逃げるしかない。
今、彼は、死の匂いを風の中に感じ、破壊の音を聞き分けるため、両耳を前方に向けて聴覚を研ぎ澄ました。
初めてではなかった。若い頃から何度か、死の匂いを嗅いだことはあった。いつも同じではない。山の神の匂いは、その時々で微妙に違う。だが、見つかったら結果は同じだった。
死、あるのみ。
森の奥。折り重なる幹の隙間から聴こえる、草の折れる音。樹皮に何かが擦れる音。
彼は呼吸を止め、ゆっくり一歩後ずさった。
森の中の、巨大な影。
以前にも一度、ここで見たことのある大きな影。その時は逃げることができた。
もう一歩下がる。背後は石の道、それを飛び越えれば急な斜面があり、駆け上がれば追ってこない。前はそうだった。
石の道まで、あと一歩。後ろ脚を静かに持ち上げ、石の道との境目にゆっくりと——
後ろ脚が何かを踏み、ガサッと大きな音がした。自然にはない、奇妙な音。何を踏んだのかを確認する暇など残されていなかった。
目。
山の神の目。
その死の凝視を振り払うかのように、彼は振り向きざま跳躍した。石の道へ。
横から大きな白い塊が飛び出してきて、彼の下半身にぶつかった。彼はその塊の上に倒れ込み、角が見えない壁に激突した。
その瞬間、彼——偶蹄目シカ科シカ属、エゾシカの彼は、11年の生涯を終えた。即死だった。
硬石山。札幌市南区南沢と白川を繋ぐ山道は、地元ではそう呼ばれている。
標高は高くはないが、その山や森には、エゾシカなどの野生動物が数多く生息していた。そこを抜けるこの細道では、エゾシカと車の接触事故も頻繁に起きていた。
救急隊や警察が事故処理をする傍らの、アスファルトの上に転がったエゾシカのまだ温かい死骸を、森の奥から見つめる一対の目。
しばらくの間、エゾシカの死骸と、その周りで動き回る人間たちをじっと見つめていたその目は、夕暮れが近づくとその場を離れ、森の奥へ消えた。
食肉目クマ科クマ属。
ヒグマ。




