15 Attack
【2026年9月26日(土)23時過ぎ SAPPOROもふもふパーク】
園長は軽トラックを国道沿いに停車し、エンジンを止めた。国道から駐車場に入る坂の手前で。
さっき、チェーンをしっかりかけたばかりだった。太くて頑丈な、入り口を横断する長いチェーンで、かけるのはちょっとした力仕事だ。園長は忘れ物を取りに戻っただけだった。短時間なら、ここに停めても誰にも迷惑はかからないはずだった。
近くに街灯はないが、今日もよく晴れていたし、昨日は中秋の名月だった。明るい月夜。明かりがなくても、足元くらいなら十分よく見えた。
静かな夜。数日前はヒグマの車襲撃事件でマスコミが騒がしかったが、そのヒグマはすぐに駆除され、マスコミも引き上げていた。お月見に相応しい、静かな夜だった。去年まではパークのイベントが開催され、ウサギたちの柵で、子どもたちが楽しく遊んでいた。親たちも、運転しない者は酒を酌み交わし、園長も付き合って、パークに宿泊したこともあった。
もう過ぎ去った日々だった。子どもたちもウサギも、ここにはもういない。
園長はチェーンを跨いで、パークへの坂道を登り始めた。ワーキングシューズのゴツい靴底が、砂利混じりの土を踏み締めてズザ、ズザと音を立てる。
「メヘヘヘェ」
静まりかえったパークに、アントワネットの鳴き声が響いた。こんな時間にヒツジが起きているのは珍しかった。ヒツジはストレスに弱く、孤独はそのストレスの要因になる。アントワネットにも、かつては多くの仲間や、子どもたちに囲まれていた日々があった。今はこの寂寥の荒地に、ただ1匹だけ残されていた。
園長は少しだけ足を早め、坂を登り切るとライオンの口に入った。さすがに真っ暗なので、スマホのライトを点けて。
天井の蛍光灯を点けることはできなかった。点かないからだ。先週、電気を止められていた。電気料金の滞納で。
あと数日で、ここに来るのも終わりだった。18年間通い続けてきた日々の終わりだった。
「メヘヘヘェ」
「アントワネット。待ってろ」
園長は応接室兼事務室のデスクを照らし、開いて伏せてあった文庫本を取った。シートン動物記。子どもの頃からもう何度も読んでいるが、閉園を機に初心を思い出したくなって、文庫版をネット通販で購入し、昼間、誰も来ないパークの事務室で読み耽っていた。帰宅して風呂に入る前に続きを読もうとして、パークに忘れてきたことに気づいたのだ。しおりを挟んで閉じると、オーバーオールの腹ポケットに突っ込み、奥のドアに向かおうとした。
「ベェェェ!」
その声が、園長の動きを止めた。
アントワネットの、脅えた声。
スマホのライトを奥のドアに向ける。もちろん閉まっている。そのまま、ドアへ歩く。
「ベェッ!ベェッ!ベェッ!……」
「アントワネット?!」
園長も、一度も聞いたことがない鳴き方だった。
「ヴェエエーーッッ!」
絶叫。悲鳴?ドスっという音。ドアノブに伸ばした手が止まった。聴き耳を立てる。
フッ、フッ。
鼻息。
ヒツジじゃない。
大きな動物の鼻息の音。
山際の電気柵。
もちろん、電気は止められて、流れていない。
フッ……フーッ。
鼻息が、大きくなった。間隔が伸び……止まった。
すぐ、近くに。
このドアの向こう。
園長は文庫本を入れた腹ポケットを押さえた。表情が歪んだ。汗が滲み、額から流れ落ちた。
薄っぺらい、ペラペラの鋼板を貼り合わせただけのドア。
フーッ……フーッ……。
ヒグマだ。
電気柵を破って、入ってきた。アントワネットは殺された。
一撃で。
園長は振り向きざま、入り口に向かって駆け出そうとした。ヒグマに遭遇した時のセオリーなど、完全に忘れた。
暗闇の中、昼間香奈子たちが座っていたソファにぶつかって転倒した。大きな音を立てて。
次の瞬間、それを上回る破壊音が轟き、バリバリとドアや壁を押し破って、巨大な影が事務室に傾れ込んだ。それは四つ足のまま一歩踏み出しただけで園長の背後に達し、太い右前足を、園長の背中に叩き落とした。園長はうつ伏せに倒れ、床にめり込むように潰された。
動かなくなり、鮮血が染み出した園長の背中に、再び、鎌のような5本の鉤爪が突き刺さり、オーバーオールごと園長の背中を尻まで引き裂いた。
フッ、フッ。
ヒグマは鼻面を、動かなくなった園長の首元に近づけて匂いを嗅ぎ、それから両前足で園長を抱え込むと、床を引き摺って事務室を出て行った。入ってきた大きな穴から。
十六夜の月明かりに照らされた茶色の獣毛の毛先を金色に輝かせて、ヒグマは周囲を見回すと、厚く膨らんだ羊毛を真紅に染めたアントワネットの隣に、園長の亡骸を転がした。僅か半日前、香奈子たちがレジャーシートを広げてサンドイッチを食べていた場所だった。
まだ血が流れ出しているヒツジと人間の遺骸の脇に屈み込み、また匂いを嗅ぐと、手前にあった人間の身体をひっくり返して仰向けにし、腹部に喰らい付いた。
オーバーオールの腹ポケットに、まだシートン動物記の文庫本が入っていたが、ヒグマにとってはそれが、人間の残した野生動物に関する名著であろうとただの繊維の塊であろうと、食べられるものでなければ邪魔なだけだった。唸りながら頭を振ってオーバーオールや中のシャツごと引きちぎると、そのまま横に放り出す。
人間の、中年男性の突き出た腹が、血に塗れて剥き出しだった。
ヒグマはすかさず、その柔らかい肉塊にかぶりついた。




