第8話 嘲笑しに来た元婚約者だけが、拍手しない
開演を告げる鐘の音が、劇場全体に重々しく鳴り響いた。
舞台袖の暗がりからそっと客席を覗き込んだ私は、眼前に広がる光景に小さく息を吐いた。
二百四十席。先週まで三人だった客席に、もう空席はない。平土間には商人や職人が肩を寄せ合い、二階には色鮮やかな貴族の衣装が並んでいた。
その二階席の中央に、元婚約者のジュリアンがふんぞり返っているのが見えた。彼は両腕を組み、取り巻きの令嬢や友人たちと何やらヒソヒソと話し合いながら、舞台を見下ろしてニヤニヤと嘲笑を浮かべている。
「さあ、どんな惨めな大根芝居を見せてくれるのかな」
彼のそんな声が、舞台袖まで聞こえてきそうだった。
私はジュリアンから視線を切り、舞台裏で緊張に顔を強張らせている役者たちへと振り返った。
「大丈夫です。客席の空気は十分に温まっています。私たちが稽古で作り上げたものを、ただ真っ直ぐに届けてきてください」
ミーシャとエリックが力強く頷き、定位置へと向かう。
幕が、ゆっくりと上がった。
『恋するパン屋と秘密のレシピ』の初演が始まった。
序盤から、客席の反応は上々だった。古典史劇の重苦しい台詞回しを捨てたエリックの軽妙な演技が、庶民たちの笑いを誘う。ミーシャが登場すると、その圧倒的な美しさに客席からほうっと感嘆の息が漏れた。
そして物語は、いよいよ第一幕の最大の見せ場へと差し掛かった。
パン屋のドジな見習い役であるエリックが、棚の上の小麦粉を取ろうとして体勢を崩す。
鈍い音とともに白布の仕掛けがほどけ、床へ落ちるごく少量の米粉が光を散らした。客席からは、大量の小麦粉がミーシャの頭上へ降り注いだように見える。
劇場内が、水を打ったように静まり返る。
白い仕掛け布と薄い粉煙の中で、粉まみれに見える看板女優が微動だにせず立っている。
一秒。二秒。三秒。
客席全体の動きが止まり、沈黙が限界まで張り詰めた、その瞬間。
「……ねえ。貴方のその頭蓋骨の中には、脳みその代わりに発酵前のパン生地でも詰まっているのかしら?」
ミーシャの氷のように冷たい声と、粉まみれの滑稽な姿の強烈なギャップ。
「ぶっ……あははははっ!」
最前列の客が吹き出したのを皮切りに、二百四十人の客席から爆発的な笑い声が弾けた。
だが、私たちの仕掛けはただ笑わせるだけではない。
笑いが収まりかけた絶妙なタイミングで、ノエルの照明魔法が一灯だけ、舞台上の二人を柔らかく照らし出した。
粉まみれに見える無様な姿のエリックが、ふらつきながらもミーシャの前に歩み寄る。
「こんな粉まみれで、どうしようもない俺だけど……君が毎日焼いてくれるパンを、一生隣で食べたいんだ」
決して美しくはない。滑稽で、情けない告白。だからこそ、その言葉には嘘のない真実味が宿っていた。
ミーシャは彼を見つめ、張り詰めていた怒りの表情をゆっくりと解いていく。そして、呆れたように、けれどひどく愛おしそうに微笑んだ。
「馬鹿ね。……焦げたパンでも、文句言わずに食べなさいよ」
客席の空気が、笑いから一転して温かい感動へと変わる。
あちこちから、鼻をすする音や小さく息を吐く音が聞こえ始めた。舞台袖から見上げた二階席でも、ハンカチで目元を押さえているご婦人たちの姿が見えた。
やがて、静かな音楽とともにゆっくりと幕が下りる。
数秒の深い余韻の後。
割れんばかりの、雷鳴のような拍手が劇場を揺るがした。
「ミーシャ! 最高だ!」
「エリック、よく言った!」
幕が再び上がり、役者たちが一列に並んでお辞儀をするカーテンコール。
その熱狂の中、一般席の最前列で、ひときわ目立たない灰色の外套を着た青年が、誰よりも早くガタッと立ち上がった。
「エリック! ミーシャ! 素晴らしい演技だった!」
大声で役者の名を叫んだのは、最上位後援者のカイだった。腹の底から声を張り上げた直後、自分が誰よりも目立ったことに気づき、耳を赤くして座り直す。
だが、彼の一声が決壊の合図だった。
総立ちになった観客たちが、次々と役者の名前を叫び始める。
「す、素晴らしいわ……っ! ミーシャ、最高よ!」
二階席で、ジュリアンが嘲笑するために連れてきた貴族の令嬢たちまでもが立ち上がり、身を乗り出して拍手を送り始めた。
「おい、お前ら! 何をやっている、こんな下品な芝居に……!」
ジュリアンが慌てて令嬢のドレスの裾を引こうとするが、彼女たちは涙ぐんだ目で彼を振り払った。
「触らないでちょうだい! これのどこが下品なのよ。泥臭くたって、あんなに真っ直ぐな愛の言葉はないわ!」
「エリック! こっちを向いて!」
取り巻きの青年たちも、照れくさそうにしながらも力強く拍手を送っている。
熱狂の渦に包まれた満席の劇場の中で。
たった一人、ジュリアンだけが椅子に座ったまま、どうすることもできずに孤立していた。
彼の顔は蒼白になり、ワナワナと震える唇からは言葉も出ない。誰も彼を見てはいなかった。二百三十九人の観客の目は、ただひたすらに舞台上の役者たちへと注がれていた。
ジュリアンを黙らせたのは私の反論ではない。金を払い、自分の意思で立ち上がった二百三十九人だった。
最後の観客を見送り、売上の集計を始めた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
そこへ商人ギルドの夜便が、一通の上質な封筒を届けてきた。
宛名はなく、裏には一文字だけ。Kからの手紙だった。
私は震える指で封を開け、中の文字を目で追った。
『初演の満席、おめでとう。
素晴らしい笑いと涙だった。舞台上の彼らは間違いなく輝いていた。
そして私は、舞台袖にいた君を見落としていない。
あの人々を信じた仕事に、最大の拍手を送る。K』
文字が滲んだ。
私は手紙を持って、灯りの落ちた舞台袖へ戻った。役者の名を呼んだ声が、まだ古い壁に残っている気がした。嬉しいはずなのに、便箋を持つ指だけが冷え、紙に薄い湿りが残った。
あの夜は、私の名だけがなかった。
けれど今、舞台袖まで見ていた人が一人いる。
私は袖口で目元を拭い、顔を上げた。
「ええ。私たちの戦いは、まだ始まったばかりよ」
誰もいない舞台には、白布の端と、カーテンコールで並んだ靴跡が残っていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【声の広場・観劇板】
投稿者:ヴィオラ・レイン
『恋するパン屋』観劇。古典を喜劇に落とし込んだ大胆な改稿手腕と、役者の魅力を引き出した演出は評価に値する。悔しいが次も観る。
返信:
本当に最高だった! 私も明日もう一度行く!
あの座長は、役者を推して世へ出す令嬢だ。




