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第7話 笑った客から、最後の九十三席へ

「エリック! ミーシャ!」


劇場街の広場に集まった群衆から、役者の名前を呼ぶ熱狂的な声が響き渡る。

初演を明日に控えた昼下がり。私たちは、第二弾となる街角短演を決行していた。

前回の短演で観客の笑いを引き出すことには成功した。次なる仕掛けは、観客をただの「見物人」から、舞台に参加する「当事者」へと引き上げることだ。


前世のアイドル時代、ステージと客席を最も強く繋ぐのは「コール」――つまり、名前を呼ぶ行為だった。自分の声で名前を呼び、推しがそれに視線と笑顔で応えてくれる。その瞬間の強烈な一体感は、一度味わえば癖になる。

私は今回の台本に、観客に向かって問いかける台詞と、わかりやすいポーズを入れた。エリックがウインクとともに耳に手を当てると、サクラとして仕込んでおいた裏方たちが率先して名前を叫び、それに釣られて群衆も声を張り上げる。

さらに、もう一つの仕掛けを投下した。

「本公演の前売り券をお買い上げの方で、ご友人を紹介してくださった方には! この喜劇の裏側を書いた『限定小冊子』をプレゼントいたします!」

私が声を張り上げると、「なんだって?」「パン屋の裏話が読めるのか?」と興味を持った人々が、次々と友人の腕を引っ張って売り場へ押し寄せてきた。


「おいおい、なんだいこの騒ぎは。まだ大道芸をやっているのか」

不意に、周囲の熱気を冷や水でぶっかけるような、底意地の悪い声が降ってきた。

見ると、先日も劇場を訪れた元婚約者のジュリアンが、取り巻きの令嬢たちを引き連れて呆れた顔で立っていた。

「ジュリアン様」

「昨日、俺が貴族席を七枚も買ってやったのに、まだこんな小銭稼ぎをしているとはね。王立認定劇団の面汚しもいいところだ」

彼は鼻で笑ったが、その隣にいた華やかなドレスの令嬢たちは、彼とは全く違う反応を示していた。

「まあ……あちらの男優さん、平民の役なのにすごく身のこなしが洗練されていてよ」

「女優さんも、あんなに粉まみれなのに品があって……なんだか目が離せないわ」

令嬢たちは、舞台上のエリックの甘い視線と、ミーシャの凛とした立ち姿にすっかり魅了されていた。

「ジュリアン様。わたくしたち、あの前売り券が欲しいわ」

「はっ!? いや、あんな下品な喜劇など……」

「だって面白そうですもの。あなた、昨日貴族席を買ったとおっしゃっていたでしょう? わたくしたちもご一緒してよろしくて?」

令嬢たちに急かされ、ジュリアンは顔を引きつらせた。彼は体裁を取り繕うように咳払いし、「し、仕方ないな。おい、前売りを三枚追加だ!」と銀貨を机に叩きつけた。

「毎度ありがとうございます。限定小冊子もお付けしますね」

私が満面の笑みでチケットを渡すと、彼は忌々しそうに引ったくり、令嬢たちに引っ張られるようにして逃げていった。


「随分と、安っぽい売り方をなさるのね」

彼らと入れ替わるように、一人の女性が机の前に進み出た。

上質な濃紺のドレスに身を包んだ、二十歳ほどの令嬢だ。切れ長の鋭い瞳が、私を射抜くように見据えている。

「あなたは……」

「ヴィオラ・レインと申します。以前、お宅の古典史劇を観劇し、魔法掲示板の《声の広場》に観劇評を投稿させていただきました」

ヴィオラ・レイン伯爵令嬢。辛口の観劇評で知られ、妥協を許さない美意識を持つと噂される人物だ。

「座長殿。由緒ある史劇を捨ててまで、このような庶民向けの喜劇を街角で披露する。それは王立認定劇団の格式を捨てて、金に媚びたという理解でよろしいのかしら?」

彼女の言葉は鋭く、周囲の空気までピンと張り詰めた。


だが、私は怯まなかった。

「ヴィオラ様。格式は、空席の劇場では守れません」

私は手元の帳簿を閉じ、真っ直ぐに彼女の目を見た。

「当劇団の標準席は二千リルです。役者に公正な賃金を払い、舞台の安全基準を満たし、不透明な補助金に依存せずに劇団を存続させるためには、二百四十席を満席にする必要があります。ごく一部の貴族の方々に一万リルの席を売るだけでは、屋根の修理すらできません」

私は言葉を区切り、舞台上のミーシャを指し示した。

「演目が喜劇に変わったことで、敷居は下がりました。ですが、彼女たちの『演技の質』は一リルたりとも下がっていません。安売りではなく、より多くの方に最高の価値を届けるための適正価格です」

数字と論理を交えた私の明確な回答に、ヴィオラはわずかに目を見張った。

「……数字で反論されるとは思いませんでしたわ」

彼女はふっと口元を緩め、財布から銀貨を取り出した。

「いいでしょう。あなたのその言葉が虚仮威しでないか、明日の初演で確かめさせていただきます。一枚、頂けるかしら」

「ありがとうございます。必ず、ご満足いただける舞台をお見せします」

手渡したチケットを優雅に受け取り、彼女は静かに去っていった。


その夜。劇場の事務所で、私はセバスチャンと共に最終的な集計を行っていた。

「……二百三十七、二百三十八、二百三十九」

私が読み上げる数字に、セバスチャンの手も震えている。

「座長。残るは、あと一席です」

時計の針は、すでに夜の十時を回っていた。明日の初演まで、もう時間がない。

ここまでか、と息を吐きかけたその時。

「た、頼む! まだ開いてるか!」

劇場の入り口に、息を切らした小間物屋の女将が飛び込んできた。

「あの、街角で配ってた香り付きの札を見て来たんだ! 明日の切符、まだ残ってるかい? どうしても観に行きたくてねえ!」

私は大きく目を見開き、そして、今日一番の笑顔を作った。

「はい。最後の一枚が、ちょうど残っておりますよ」


代金を受け取り、最後のチケットを手渡す。女将が嬉しそうに帰っていく後ろ姿を見送りながら、私はセバスチャンと顔を見合わせた。

「セバスチャン」

「はい、座長……」

「二百四十席。全席完売です」

その瞬間、事務所の奥で息を潜めていたエリックやミーシャ、劇団員たちから「うおおおっ!」という地鳴りのような歓声が上がった。

抱き合って喜ぶ役者たちを見つめながら、私は静かに拳を握りしめた。

客席三人からのスタート。借金一千万リル。

どん底から始まった私たちの戦いは、ついに最初の頂へ到達したのだ。


最後の戸締まりをしていると、昼間ジュリアンと一緒だった令嬢が引き返してきた。

「明日は笑わずに座っていろ、と言われましたの」

彼女は扇の陰で困ったように笑った。

「でも、面白かったら笑いますわ。席を買ったのはわたくしですもの」

「もちろんです。どう観るかは、お客様がお決めください」


扉を閉めながら、私は二階中央の七席を思った。嘲笑のための席であっても、幕が上がれば舞台と観客のものだ。


【本日のフォンテーヌ座収支】

借金残高:10,000,000リル

【声の広場・観劇板】

『恋するパン屋』ついに明日初演! 前売り完売って本当か!?

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