第6話 香り付き案内札と百四十七枚
「座長! この印刷代と香料の請求書は一体何事ですか!?」
朝の劇場事務所。経理も兼ねる舞台監督のセバスチャンが、束になった請求書を私の机に強く叩きつけた。彼の白髪交じりの眉は、怒りと呆れで吊り上がっている。
「ただでさえ借金が一千万リルもあるというのに、無料の試食券がついた案内札を大量に印刷し、あろうことか高価な香料まで使うなど、正気の沙汰とは思えません! これでは客が来る前に、宣伝費で我々が干上がってしまいますぞ!」
セバスチャンのもっともな怒りに、私は机の上の案内札を一枚手に取った。
それは、パン屋組合と共同で作成した新しい公演案内札だ。表面には『恋するパン屋と秘密のレシピ』のタイトルと、粉まみれになって微笑むミーシャの魔写絵(魔法技術で焼き付けた写真のようなもの)が刷られている。そして裏面には、協賛してくれたパン屋の試食券と、劇場までの手書きの地図。
最大の特徴は、札そのものからふわりと漂う、香ばしい焼き立てパンの匂いだ。
私は案内札を彼の鼻先に近づけた。
「受け取った人がパン屋へ行き、店で舞台を知る。劇場までの地図も裏にあります。紙を配って終わりにはしません」
「理屈はわかりますが、原価がかかりすぎです。配れば配るほど赤字になるのでは……」
「なりません。こちらの数字を見てください」
私は手元の帳簿を開き、あらかじめ計算しておいた数字の羅列を指差した。
「印刷、香料、試食の補填、装置の改修。その合計を前売り収入から引きます」
私は羽ペンで、一つの数字を丸く囲んだ。
「損益の分岐点は『百四十七枚』。前売り券が百四十七枚売れた瞬間、この宣伝費はすべて回収され、それ以降は一枚売れるごとに劇団の純利益となります」
「ひゃく、よんじゅうなな……」
「ええ。現在の販売数はすでに百二十枚を超えています。今日中に必ず、分岐点を超えてみせますよ」
前世のアイドル運営でも、チラシ配りはただ配ればいいというものではなかった。受け取った人間の五感に訴えかけ、次の行動へ直結させる導線がなければ、ただの紙くずだ。
明確な数字と根拠を示されたセバスチャンは、まだ納得しきれないような顔をしながらも、渋々と引き下がった。
* * *
その日の午後。私たちは劇場街の広場で、最後の前売り券販売を行っていた。
「さあさあ、焼き立てパンの香りがする不思議な案内状だよ! 劇場の前売り券を買ってくれた方には、さらに特別な割引も!」
エリックがよく通る声で呼びかけ、リリィが可愛らしい笑顔で道行く人々に案内札を配る。
香りの仕掛けは絶大な効果を発揮していた。札を受け取った途端に匂いに気づき、足を止めて内容を読み込む人が続出しているのだ。
「ふふっ、本当にいい匂いね。お芝居のチケット、一枚もらえるかしら」
「ありがとうございます!」
私は次々と手渡される銅貨と銀貨を素早く計算し、手帳に販売数を記録していく。
(百三十八、百三十九、百四十……)
「相変わらず、大盛況のようだね」
ふと、心地よいバリトンの声が降り注いだ。顔を上げると、最上位後援者であるカイが立っていた。
今日も仕立ての良い簡素な外套を羽織り、街の喧騒には不釣り合いなほど涼しげな空気を纏っている。
「カイ様! いらしてくださったのですね」
「ああ。街を歩いていたら、君の劇団の札を持った人間を何人も見かけたからね。パンの香りがする札とは、実に面白い試みだ。……ところで、その案内札の絵柄だが」
カイは机の上に並べられた三種類の案内札(ミーシャ、エリック、リリィの絵柄)を真剣な目で見つめた。
「三種類あるなら、全種類保存しておきたい。それぞれ一枚ずついただけるだろうか」
(……保存? まるで熱心なファンというか、コレクターね)
「ええ、もちろん構いませんよ。どうぞ」
私が三枚の案内札を渡すと、彼は満足そうにそれを丁寧に折り曲げないよう懐へしまった。
「それから、せっかくならその試食とやらも頂いてみようか」
カイは私たちの隣で出張販売をしている、協賛のパン屋の屋台へと歩み寄った。
「店主、この胡桃パンを一つもらおう」
「あいよ! 三十リルね!」
威勢のいい店主の声に、カイは頷き、懐から豪奢な革財布を取り出した。
そして――彼は屋台の前で石のように固まった。
「……えっと、カイ様?」
私が不思議に思って覗き込むと、彼の財布の中には、眩いほどに輝く大金貨と金貨しか入っていなかった。三十リルという、庶民が使う銅貨や少額の銀貨が一切ないのだ。
彼は小銭の扱いに絶望的なほど不慣れらしい。
「あー……その、店主。これで釣りは出るだろうか」
カイが恐る恐る差し出したのは、一枚で数万リルの価値がある大金貨だ。
「ば、馬鹿言ってんじゃねえよ旦那! こんなもん、屋台じゃ一生かかっても釣りが出せねえよ!」
店主に怒鳴られ、カイはみるみるうちに耳まで真っ赤になった。知的で冷静な普段の姿からは想像もつかないほど、狼狽している。
「す、すまない。私は、その……硬貨の計算が、どうも……」
見かねた私は、自分の財布から銅貨を三枚取り出し、チャリンと店主の手に乗せた。
「ごめんなさいね、私がお支払いします」
パンを受け取ってカイに渡すと、彼は穴があったら入りたいというような、ひどくいたたまれない顔をした。
「……すまない、リゼット。また君に立て替えさせてしまった。私は本当に、こういう日常の些事において無能の極みだ。不甲斐ない……」
「気にしないでください。誰にでも不得手はありますから」
「ここの胡桃パンは私の好物ですし、三十リルなら次に返してくだされば十分です」
必要以上に落ち込み、動揺するカイの姿は、隙のない彼が見せたほんのわずかな人間らしさで、私は思わずクスッと笑ってしまった。
その時だった。
「おいおい。なんだい、この底辺の貧民街みたいな真似事は」
周囲の空気を凍らせるような、ひどく傲慢で聞き覚えのある声が響いた。
群衆を掻き分けて現れたのは、豪奢な貴族の衣服を身に纏い、取り巻きの令嬢や青年たちを引き連れたジュリアンだった。
元婚約者の登場に、私は笑顔を消して営業用の冷たい表情を作った。
「ジュリアン様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、じゃないだろう。王立認定劇団の座長ともあろう者が、路地裏でパンの匂いを漂わせて小銭稼ぎとはね。大道芸以下の下品な商売だ。社交界の笑い者だよ」
ジュリアンは鼻で笑い、屋台や私たちの手作り舞台を汚物でも見るかのように見下した。
取り巻きの令嬢たちも、扇で口元を隠してクスクスと笑っている。
「私たちは誇りを持って、正当にチケットを販売しているだけですが。何かご用でしょうか」
「用? ああ、あるとも。明日の初演日、俺も観に行ってやるよ。この俺の友人たちを引き連れてね」
ジュリアンは意地悪な笑みを浮かべ、金貨の入った袋を私の机に乱暴に放り投げた。
「一番高い貴族席を七枚だ。空っぽの客席で、お前たちがどんな無惨な喜劇を演じるのか。俺たちが特等席でたっぷりと嘲笑してやるよ」
あからさまな悪意。普通の人間なら、怒りでチケットを投げ返す場面かもしれない。
だが、敏腕マネージャーとしての私の計算機は、感情とは別の次元で冷静に弾き出されていた。
(貴族席七枚。単価は一万リル……計七万リルの売上)
私は営業用の笑みを作って頭を下げた。
「お買い上げ、誠にありがとうございます。ジュリアン様、ならびにご友人の方々。フォンテーヌ座は皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げております」
その態度が気に入らなかったのか、ジュリアンは「せいぜい足掻くんだな」と吐き捨て、取り巻きを引き連れて去っていった。
「……リゼット」
心配そうに声をかけてきたカイに、私は手元の集計表を見せて笑いかけた。
「カイ様、ありがとうございます。今、ジュリアン様が貴族席を七枚買ってくださったおかげで……」
私は帳簿の数字に、力強く横線を引いた。
「たった今、前売り券の販売枚数が『百四十七枚』になりました。損益分岐点、突破です」
嘲笑するために買った席だろうがなんだろうが、売上は売上だ。これで私たちは赤字を脱し、利益を出すフェーズに入った。
「明日の初演は、必ず満席にしてみせます」
私の宣言に、カイはわずかに目を見張り、やがて優しく、ひどく穏やかな笑みを浮かべた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
前売り券147枚販売。損益分岐点突破。残り93席。明日、本公演初日。




