第5話 看板女優の笑い方
「粉を吸い込んで声を傷めたら、誰が責任を取るの?」
昼下がりの舞台上。看板女優ミーシャの怒声が、静かな客席に向かって反響した。
彼女の足元には、演出用の小麦粉袋に見立てた布包みが置かれている。
一週間後に迫った『恋するパン屋と秘密のレシピ』の立ち稽古。その第一幕の最後、パン屋のドジな見習い(エリック)が棚から小麦粉を落とし、ヒロイン(ミーシャ)が頭からそれを被ってしまうという、本作最大の見せ場でのことだ。
ミーシャは美しい赤毛をかき上げ、私をキッと睨みつけた。
「私はフォンテーヌ座の看板女優よ。悲劇『湖の乙女』で、涙とともに美しく倒れるのが私の仕事。それなのに、粉を被って滑稽にわめき散らすなんて……私の演技を、美しさを捨てるというの!?」
怒りはもっともだった。笑いのために役者の喉を危険へさらす演出なら、私の方が降ろされるべきだ。
「ミーシャ。貴女は自分の美しさを『捨てる』のではありません。美しさを『フリ』に使うんです」
「フリ……?」
「そうです。最初から滑稽な人物が粉を被っても、観客は『ああ、やっぱりな』としか思いません。ですが、貴女のような近寄りがたいほどの美女が、突然真っ白な粉まみれになる。その強烈な落差こそが、観客の意表を突くんです」
私は彼女の目の前まで歩み寄り、はっきりと言い切った。
「本物の粉は使いません。白布と、床へ落ちる少量の米粉で試します。吸い込みをノエルが測り、危険が出たら演出を取り下げる。笑いが一つも起きなくても同じです」
私は白布をミーシャの肩に掛けた。
「美しさを捨ててほしいのではありません。その美しさを、誰も予想しない一瞬のために貸してください」
ミーシャは私の強い視線を受け止め、やがて不満げに舌打ちをした。
「……わかったわ。その代わり、絶対に笑わせてみせるから」
私たちは配置につき、通し稽古を再開した。
舞台袖からセバスチャンやノエル、子役のリリィたちが、観客役として固唾を飲んで見守っている。
舞台中央で、エリックが大げさな身振りで脚立に登り、小道具の袋に手を伸ばす。
「ああっ、いけない! バランスが……!」
エリックがわざとらしく体勢を崩し、袋が真っ逆さまに落下する。
バフッ! という鈍い音とともに白布がほどけ、ごく少量の米粉がミーシャの周囲へ落ちた。客席からは、頭から粉を被ったように見える。
薄い粉煙が晴れた後。そこには、白布を髪と肩へまとい、頭から粉を被ったように見える看板女優が立ち尽くしていた。
遠目には、美しいドレスも艶やかな髪も台無しだ。
悲劇のヒロインであれば、ここで膝から崩れ落ちて泣き崩れるところだろう。
だが、ミーシャは動かない。
瞬きすらせず、白布の中で瞳だけを光らせ、脚立から落ちて震えているエリックを見下ろしている。
一秒。二秒。三秒。
客席役の劇団員たちが「いつ怒り出すんだ?」と身を固くし、静寂が限界まで張り詰めた、その瞬間。
「……ねえ。貴方のその頭蓋骨の中には、脳みその代わりに発酵前のパン生地でも詰まっているのかしら?」
氷のように冷たく、しかし劇場中に響き渡る低い声。
そのあまりにも真剣な怒りと、粉まみれに見える滑稽な姿の強烈なギャップに――。
「ぷっ……あははははっ!」
真っ先に吹き出したのは、子役のリリィだった。
それを皮切りに、しかめっ面で腕を組んでいたトーマが吹き出し、気難しいセバスチャンまでもが肩を震わせて笑い始めた。
「おいおい、最高じゃないか!」「あのミーシャがあんな顔をするなんて!」
客席は、温かくも爆発的な笑い声に包まれた。
その反応を全身で浴びたミーシャは、一瞬ぽかんとした後、指先に残ったわずかな米粉を見つめた。
彼女の頬が、ゆっくりと紅潮していく。
悲劇で同情の涙を誘うのとは違う、観客の感情を直接揺さぶり、笑顔を引き出したという、役者としての新しい手応え。
「……悪くないわね」
ミーシャはふいっと顔を背けたが、その口元には隠しきれない誇らしげな笑みが浮かんでいた。
(勝った。これで彼女は、本当の意味で喜劇の看板女優になる)
私はホッと胸を撫で下ろした。
「素晴らしい間だった。見事なものだ」
不意に、劇場の入り口から手を叩く音が響いた。
振り返ると、最上位後援者である銀髪の青年、カイが立っていた。今日も仕立ての良い外套を着ているが、どこかふらりと立ち寄ったような気軽さがある。
「カイ様。ご足労いただいたのですね」
「ああ。少し近くまで来たものでね。邪魔だったかな?」
「とんでもありません。ちょうど、ヒロインの殻を破る最大の見せ場が完成したところです」
カイは一般席の通路を歩いて私に近づき、舞台上のミーシャへ賛辞の視線を送った後、私に向き直った。
「彼女の才能もさることながら……それを引き出した君の演出に驚いたよ。君は本当に、客の笑う前の息を……いや、客の反応を完璧に支配していた」
「えっ?」
私は思わず聞き返した。
(笑う前の息……?)
二日前、匿名後援者Kから届いた手紙の文面が、耳の奥で鮮明に蘇る。
『あなたは、客の笑う前の息を聞いていた』
偶然にしては、あまりにも詩的で、特殊すぎる表現だ。
「カイ様、今なんとおっしゃい――」
私が目を細めて問い詰めようと一歩踏み出した瞬間、カイの肩がビクッと跳ねた。
彼は明らかに動揺したように視線を泳がせ、不自然なほど大きな咳払いをした。
「あー……そ、そういえば! 表に客が来ていたぞ。商人ギルドの紋章をつけていた。私のような部外者が長居しては商談の邪魔になる。今日はこれで失礼するよ!」
言うが早いか、彼は私が引き止める間もなく、逃げるように踵を返して劇場を出て行ってしまった。
「なんなの、あの慌てようは……」
不可解な態度に首を傾げていると、セバスチャンが困惑した顔で一人のふくよかな男性を案内してきた。
「座長。王都パン屋組合の副組合長殿がお見えです」
「パン屋組合の方が、我がフォンテーヌ座へどのようなご用件でしょうか?」
私が居住まいを正して応対すると、副組合長は愛想よく揉み手をした。
「いやなに、最近劇場街で『恋するパン屋』という新しい喜劇が始まるという噂を聞きましてな。我々としても、パン屋が主役の舞台となれば応援したくなるのが人情というもの」
副組合長は一枚の書状を差し出した。
「そこで、フォンテーヌ座さんと我々パン屋組合で、相互宣伝の契約を結べないかと思いましてな。劇場の前売り券を買った客にはうちのパンを割引し、逆にうちのパンを買った客には劇場の割引券を渡す。売上連動型の協力体制といきませんか?」
私は目を見開いた。
地域店舗との相互宣伝。前世のアイドル時代にも、地元の商店街と組んで集客の相乗効果を狙うのは常套手段だった。それが向こうから持ちかけられるとは。
「素晴らしいご提案です。ぜひ、前向きに進めさせてください」
私は即座に手を取り、固い握手を交わした。
借金一千万リルを返すための、そして観客を劇場に呼ぶための導線が、また一つ繋がり始めている。
その夜。自室で一息ついていると、再び匿名の手紙が届いた。
『彼女から引き出したのは美貌ではなく、役者としての新しい誇りだ。
まだ見つかっていなかった才能を世に出す君の手腕に、心からの賛辞を贈る。K』
私は手紙の美しい筆跡を指でなぞりながら、昼間のカイの慌てふためいた顔を思い出した。
(笑う前の息。……まさかね)
確証はない。だが、この手紙の送り主が誰であれ、私の表に出ない仕事まで見つけ、評価してくれる人間がいる。
その事実だけが、今の私を前へと突き動かす強い原動力になっていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
第一幕通し稽古完了。パン屋組合より売上連動の相互宣伝契約を受諾。




