第4話 眠れる史劇を恋愛喜劇に変えます
「この威圧感のある大理石の柱、横に倒して赤茶色の布を張れば、パン屋の大きな窯に見えませんか?」
翌朝の舞台上。私の突拍子もない提案に、三十代の舞台装置技師トーマ・グレンは、持っていた金槌を取り落としそうになった。
「座長、本気か? そいつは『王国の礎』で建国王が座る玉座の柱だぞ。いくらなんでも、街のパン屋の窯に使い回すなんて不敬な……」
「使い回します。私たちには、新作の舞台装置をゼロから作る予算も時間もありません。古い史劇の重厚なセットも、見せ方を変えれば立派な喜劇の舞台になります」
私は即座に言い切り、手に持っていた図面をトーマに突きつけた。
昨日の街角での短演で、二十七枚のチケットが売れた。だが、目標の百枚にはまだ遠いし、借金一千万リルを返すには本公演を満席にする必要がある。
本公演の演目は『恋するパン屋と秘密のレシピ』に決めた。庶民の日常を舞台にした、ドタバタの恋愛喜劇だ。重苦しい史劇で使っていたセットや衣装を徹底的にリサイクルし、原価を極限まで抑える。
「トーマ。貴方が管理しているこの舞台の『回転台』。あれは動かせますか?」
「動くことは動くが……油も差してねえし、通しで使うとなると安全基準に引っかかる」
「通しでは使いません。劇中で一度きり、ここぞという場面だけで回します」
私は舞台の隅で所在なさげに立っていた、十七歳の魔法技師ノエル・フィンを振り返った。
「ノエル。貴方の照明魔法も同じです。劇中ずっと光晶石を消費して舞台を照らすのではなく、基本は蝋燭とランプの明かりを使います。魔法の照明は、一場面だけに全力を注いでください」
「一場面、だけ……? でも、それじゃあ僕の魔法技師としての腕が……」
不満げに呟くノエルに、私は首を振った。
「逆です。ずっと明るい舞台より、暗い舞台で一瞬だけ強烈な光が差す方が、観客の心には深く残ります。……第一幕の終わり、主人公が粉まみれになって告白する最大の見せ場。そこでトーマの回転台を回し、ノエルの照明魔法を一番美しく当ててください。予算がないからこそ、一点集中で最大の効果を狙うんです」
私の具体的な指示を聞き、職人気質のトーマは顎を撫で、ノエルの目は少しだけ期待に輝いた。
「よし、装置と照明の目処は立ちました。次に、役者の皆さん」
私は舞台の前に集まっていたミーシャやエリックたちに向き直り、新しく作成した契約書の束を配った。
「本公演までの稽古スケジュールと、新しい契約内容です。必ず目を通してください」
受け取ったエリックが、紙面を一瞥して目を丸くした。
「おいおい、なんだこれは。夜八時以降の稽古禁止? それに、公演前だっていうのに『休演日』として丸一日の休みが設定されてるぞ?」
「本当だわ。こんなに休んでいたら、台詞が身体に馴染まないじゃない」
ミーシャも不満そうに声を上げる。十一歳の子役であるリリィでさえ、不安そうに契約書を見つめていた。
「長く稽古した者が偉い、という評価はしません。声や関節に異常があれば申告する。夜八時で終える。ただし時間が足りないという反対はもっともです。三日後の通しで完成度が落ちたら、休みではなく稽古内容を組み直します」
睡眠を削り、体調不良を隠した末に舞台袖で倒れた前世の自分が、照明の白さとともに一瞬よみがえった。
「休むことも契約に入れます。善意や根性だけでは、いざという時に守れませんから」
私の強い視線を受け止め、エリックとミーシャは顔を見合わせた後、静かに頷いた。
彼らが台本の読み合わせに入るのを舞台袖で見届けながら、私は手帳の間に挟んだ一枚の便箋にそっと触れた。
匿名後援者Kからの手紙。
私の地道な仕事を肯定してくれたあの言葉が、今の私を支える小さな熱になっている。
(ありがとうございます、Kさん。……必ず、この舞台を満席にしてみせます)
* * *
その夜。王宮の奥深くにある王立文書院の副院長室。
分厚い歴史書や法律の文献が山積みになった豪奢な執務机に向かい、カイ・リヒターは……否、アストリア王国第二王子クラウス・フォン・アストリアは、深いため息をついた。
「……また、駄目だ」
彼の手によって丸められた上質な便箋が、床に向かって放り投げられる。すでに足元には、十六個の紙くずの山ができていた。
「クラウス殿下。そろそろ夜会へお出ましになるお時間ですが」
入室してきた側近の言葉に、クラウスは灰青色の瞳を細め、銀色の髪を片手でかき上げた。
「すまない、少し遅れると伝えてくれ。どうしても、今夜中に書いておきたい文章がある」
「また例の劇団の座長殿へのお手紙ですか? 直接お会いして、王族としての支援を申し出ればよろしいものを……」
「それでは駄目なんだ。私が身分を明かして金や地位を使えば、彼女の築こうとしている独立した舞台を、王族の所有物に貶めることになる。私はただの『観客の一人』として、彼女の仕事を評価したいんだ」
クラウスは新しい便箋を引き寄せ、羽ペンを握り直した。
昨日の街角での短演。あの若い座長が、客の呼吸を読み切り、見事に笑いを引き出した瞬間の采配は、実に見事だった。
そして今日、劇場の玄関に掲示された新しい稽古規程で、彼女が休養日を義務付けたことを知った。
目先の利益や切羽詰まった状況に流されず、役者という人間そのものを守ろうとする強い意志。クラウスの内側で、かつてないほど強い興味と、まだ名を付けられない感情が膨らんでいた。
『君が役者の健康を守るための契約を結んだと聞き、感銘を受けた』
そこまで書いて、クラウスは手を止めた。
「……いや、待て。匿名の後援者が劇団内部の契約事情まで知っているのは不自然だ。執拗に嗅ぎ回る不審者だと思われかねない」
彼は頭を抱え、その便箋も丸めて床へ投げ捨てた。十七個目の紙くずの山ができる。
彼女の邪魔にならないように。彼女の選択を奪わないように。だが、このどうしようもない賞賛を、どうにかして彼女に伝えたい。
王位継承権を持ち、法律や演劇史を暗記している頭脳が、たった一人へ宛てる数行の前で役に立たない。
「……もう一度だ」
クラウスは十七回目の書き直しに挑むべく、真新しい便箋に向かって、不器用なほど真剣な眼差しを向けた。




