第3話 推しは推せるときに推せ
「こんな安売りみたいな真似、私は絶対にやらないわ!」
静まり返った劇場のロビーに、ミーシャの甲高い声が響き渡った。
私が徹夜で書き上げ、朝一番で配ったばかりの短い台本が、無惨にも長机の上に放り出される。
「王立認定劇団の看板女優が、由緒ある古典史劇を捨てて、街角で町人相手に喜劇をやるなんて。私の演技を安売りしろと言うの?」
「安売りではありません。新しい顧客層を開拓するための『試食』です」
私は長机の上の台本を丁寧に拾い上げ、彼女の強い視線を真っ向から受け止めた。
ミーシャが守ろうとしているのは虚栄だけではない。悲劇の女優として積み上げた評価だ。それを捨てろと言われれば、反発して当然だった。
「ミーシャ。昨日の『王国の礎』の第三幕、貴女が毒を飲む直前のシーン。本来の台本にはない『一拍の沈黙』を入れましたね?」
ミーシャの肩が、びくっと跳ねた。
「客席の三人の集中力が切れかかっているのを察知して、あえて不自然な間を作り、客の視線をもう一度舞台に引き戻した。……違いますか?」
「そ、それは……役者として当然の……」
「その『観察力』と『間の巧さ』。それこそが、喜劇で最も必要とされる才能です」
私は一歩踏み込み、彼女の目を見た。
「美貌だけで客を呼べるなら、昨日の客席は満席だったはずです。でも現実は三人だった。私は貴女の技術を安売りするつもりはありません。その絶妙な間を、客の『涙』ではなく『笑い』を引き出すために使ってほしいのです」
ミーシャは唇を強く噛み締め、私の手にある台本を睨みつけた。やがて、ひったくるようにして紙束を奪い取る。
「……十分間だけよ。一つも笑いが取れなかったら、二度と口出しさせないから」
三時間後。劇場街の賑やかな交差点の片隅で、私たちは木箱を並べただけの即席舞台を作った。
演目は、先代が残した古い喜劇のワンシーンを私が十分間に再構成したものだ。
「さあさあ、通りすがりの皆様! ほんの少しだけ、足をお止めください!」
エリックがよく通る声で呼び込みを始める。彼の軽薄なほどの明るさと度胸は、こういう場面で抜群に機能する。
行き交う商人の数人が、何事かと足を止めた。
そこへ、エリックが派手にすっ転びながら登場する。観客からパラパラと小さな笑いが起きた。
続いてミーシャの出番だ。彼女は台本通りにすぐ怒るのではなく、ふと動きを止め、地べたに這いつくばるエリックを見下ろした。
(……今だ)
ミーシャの視線が、観客の呼吸とピタリと重なる。客席の動きが止まった、その一瞬に。
「あんたの頭の中身、腐ったカボチャでも詰まってるの?」
冷たく言い放つミーシャの絶妙な間に、どっ、と大きな笑い声が弾けた。
足を止める人がみるみる増え、子どもだけでなく、荷物を抱えた職人や小間物屋の女将までが腹を抱えて笑い始めた。
「いいぞ、もっとやれ!」という掛け声まで飛ぶ。
あっという間の十分間。即席の舞台は、大きな笑いと温かい拍手で包まれていた。
「本公演は一週間後、フォンテーヌ座でお待ちしております! 前売り券はこちらです!」
私が声を張り上げると、笑い疲れた顔の観客たちが次々と机に群がってきた。
「いやあ、笑った。一枚くれ」
「私も! あの女優さん、美人なのにすっごい毒舌ね」
私は笑顔で銅貨を受け取り、手作りの前売り券を手渡していく。
客引きから戻ってきたエリックが、集まった小銭の山を見て目を丸くした。
「嘘だろ……たった十分で、二十七枚も売れたぞ。昨日の九倍だ」
舞台の片隅で息を切らしているミーシャも、信じられないという顔で自分の手を見つめている。彼女の頬は、客席からの素直な反応を受けて高揚し、ほんのりと朱に染まっていた。
「ほら、言ったでしょう? 貴女の才能は確実に届いていますよ」
私が声をかけると、ミーシャは「ま、まぐれよ」とそっぽを向いたが、その声は嬉しそうに弾んでいた。
(よし。これで最初のハードルは越えた)
私は心の中で小さくガッツポーズをした。
「素晴らしい反応だったね。私も一枚、いや……これを買わせてもらおう」
机の前に、見覚えのある銀髪の青年が立っていた。今朝、劇場を覗きに来た王立文書院の研究員、カイだ。
彼が指差したのは、一般のチケットではない。劇団を支援するための『後援契約書』の束。しかも、一番上に置いてあった「最上位後援契約」の欄だった。
「えっ……カイ様、これ、貴族の方向けの高額な契約ですが」
「問題ない。だが、契約書にサインする前に確認したいことがある」
カイは真剣な顔つきになり、契約書の文面を指でなぞった。
「この最上位契約だが。スポンサーになったからといって、脚本や演出に口を出せる『内容介入権』は……本当にないんだな?」
「はい。当劇団では、資金提供を理由とした演目への介入は一切お断りしています。役者と舞台を守るためですので」
「そうか。つまり、金を出しても、配役を自分の好みに変えたり、ひいきの女優を目立たせたりすることは『絶対に』できないんだな?」
「……ええ。おっしゃる通りです」
なぜそんなに念を押すのだろう。通常の貴族なら、口を出せないと知れば怒り出すところだ。
「よし。どんな事態になろうと、後援者は舞台の独立性を侵せない。それは法的に保証されているわけだ。間違いないね?」
「間違いありませんが……あの、カイ様? どうして三度も確認を?」
私が怪訝な顔で尋ねると、カイはハッとして、少し早口になった。
「いや、仕事柄、契約書の不備が気になってね。法的根拠が甘いと、後で君たちが困るだろう? よし、これで契約しよう」
彼はそそくさとサインを済ませ、金貨を置くと、逃げるように去っていった。
(なんだか不自然な人ね……)
首を傾げながらも、私は貴重な活動資金の獲得に安堵の息を吐いた。
その日の夕方。
劇場に戻り、本日の売上を計算していると、セバスチャンが一通の封筒を持ってきた。
「座長、商人ギルドの配達員から手紙が。匿名の方からです」
「匿名?」
封筒には宛名がなく、裏にただ『K』とだけ記されていた。
中には上質な便箋が一枚だけ入っている。流麗で力強い筆跡だった。
『街角での公演を見た。
君の目は正しかった。美しい女優の怒りも、あの男優の身のこなしも素晴らしい。
だが、私が何よりも驚いたのは君の采配だ。
あなたは、客の笑う前の息を聞いていた。
あの瞬間を信じ、待ち、引き出した君の手腕に敬意を表する』
便箋を持つ親指が、そこで止まった。
前世でも、舞台に立つ子は褒められた。けれど、客の呼吸を読む裏方の仕事まで言葉にされた記憶はない。
紙の端が指の熱でわずかにしなる。
私は便箋を丁寧に折りたたみ、手帳の間に挟んだ。
「推しは推せるときに推せ……か」
自分が育てた才能が評価されることの快感。そして、私の仕事そのものを見てくれる人がいるという事実。
私は顔を上げ、借金の数字が並ぶ帳簿に向かって不敵に笑いかけた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
街角短演決行。前売り27枚販売。謎の匿名後援者Kより手紙あり。




