第2話 婚約者より、チケットを売ります
翌朝。冷たい空気が張り詰めるフォンテーヌ座の舞台上に、主力役者五人と裏方三人を集めた。
皆の顔には、濃い疲労と不安が影を落としている。昨日の初日公演が、観客たった三人という無惨な結果に終わったからだ。
私は舞台の真ん中に立ち、単刀直入に切り出した。
「皆に隠さず伝えます。現在の当劇団の借金残高は一千万リル。支払猶予は九十日。おまけに文化評議会から、九十日後に王立認定の再審査を行うと通達がありました」
静まり返っていた劇場に、どよめきが走った。
看板女優のミーシャが、血の気を引かせた美しい顔を上げる。
「い、一千万リル……? それに王立認定の再審査って、認定を剥奪されたら、私たちは王都で舞台に立てなくなるのよ!?」
「ええ。さらに皆への賃金も二ヶ月遅配しています。このままでは共倒れです」
私は彼らの動揺を正面から受け止め、はっきりと告げた。
「だから、今ここで選んでください。今日この場で劇団を解散して各自新しい道を探すか。それとも、私と共に三ヶ月間の再建に挑むか。……解散を選ぶなら、劇場の備品を売り払ってでも、遅配分の賃金は必ず支払います」
前世で、経営陣が事実を隠したまま突然解散を告げ、アイドルたちが路頭に迷う姿を何度も見た。信頼は、まず最悪の数字を共有するところからしか生まれない。
主演男優のエリックが、いつもの軽薄そうな笑みを消して口を開いた。
「三ヶ月で一千万リルの返済なんて、正気の沙汰じゃない。だが……俺たちは先代に拾ってもらった身だ。それに、こんなガラガラの客席のまま舞台を降りるのは、役者の矜持が許さない」
「私も残るわ。他に行くあてがないわけじゃないけれど……この劇場には愛着があるもの」
ミーシャが腕を組みながら、ツンと顔を背ける。
他の者たちも、次々と頷いた。舞台装置技師のトーマも、魔法技師のノエルも、子役のリリィも、皆の目に微かな火が灯っているのがわかる。
「ありがとう。……ただし、残るなら条件があります」
私は手元の羊皮紙を広げた。昨夜のうちに書き上げた新しい契約書だ。
「一つ、赤字を垂れ流す演目『王国の礎』は即日打ち切ります。二つ、トーマ。第二幕で使っていた跳ね上げ式の舞台装置は老朽化していて危険です。今すぐ封印してください。三つ、座席価格の再設定を行います。一律ではなく、席の価値に応じた料金体系へ変えます」
息継ぎをして、最も重要な条件を提示する。
「最後に、役割を契約へ書きます。役者に自腹で券を買わせません。宣伝の責任は私が負う。ただし演出上の変更には、稽古場で異議を出してください。結論と理由は記録し、危険を伴う指示は誰でも止められるものとします」
「座長の指示に従うだけではないのですね」
ノエルが、おそるおそる確かめた。
「私も間違えます。専門家の反対を黙らせる契約なら、ない方がましです」
「集客は座長が負うって……具体的にどうするんです?」
エリックが訝しげに尋ねたその時。
「失礼。関係者以外は立ち入り禁止だったかな?」
客席の入り口から、のんびりとした声が響いた。
見ると、灰色の簡素な外套を着た若い青年が、一般席の通路を歩いてくる。色素の薄い銀髪に、知的なアイスブルーの瞳。仕立ての良い服を着ているが、どこか世間離れした空気を纏っていた。
「どちら様ですか? 今は営業時間外ですが」
私が問い質すと、青年は舞台を見上げてふっと微笑んだ。
「昨日、この劇場で観劇した三人の客のうちの一人だよ。私はカイ・リヒター。王立文書院で研究員をしている。昨日の終演後、少し気になることがあってね。朝早くから図々しいとは思ったが、覗かせてもらった」
「昨日の……」
確かに、客席の端で熱心に舞台を観ていた青年の姿を思い出した。
「しかし、勝手に入られては困ります」
舞台監督のセバスチャンが前に出ようとしたが、カイと名乗る青年は、周囲の古びた壁や天井を興味深そうに見回した。
「追い出す前に、一つだけ言わせてくれないか。昨日の演目は酷かった。脚本は古臭いし、演出も単調だ」
その言葉にミーシャがムッと顔をしかめたが、カイは真っ直ぐに私を見た。
「だが、音響だけは王都屈指だ。役者の些細な衣擦れの音、息を呑む音、それが最後列の席まで完璧に届いていた。……あの音の響きは、王宮の大劇場すら凌ぐ。君たちは、自分たちの持つ本当の武器を理解していないんじゃないか?」
私は少し驚いて、彼の顔を見つめ直した。
劇場の構造が生み出す天然の音響。それは私が昨日の診断で高く評価していたポイントと全く同じだった。ただの観客が、そこまで正確に見抜くとは。
「ご指摘、ありがとうございます。カイ様。おっしゃる通り、この劇場にはまだ見せられていない武器があります。それを生かすための再建計画を、今まさに立てていたところです」
「そうか。それは楽しみだ」
カイは満足そうに頷くと、「邪魔をしたね」と背を向けた。
「あの、お待ちください」
私は咄嗟に彼を呼び止めた。昨日の貴重な三人のお客様の一人だ。逃す手はない。
「よろしければ、劇場の外までお見送りさせてください。少しお話も伺いたいので」
私はセバスチャンに後の作業を任せ、カイと共に劇場の外へ出た。
朝の劇場街は、すでに仕込みを始める屋台や商人の活気で溢れていた。
「昨日は、最後までご覧いただきありがとうございました」
「いや。役者の技量は素晴らしかったからね。もったいないと思っただけだ」
歩きながら、ふと焼き菓子の甘い匂いが漂ってきた。カイが足を止め、路地裏の小さな屋台と、そこへ吸い寄せられる通行人を見比べた。
「舞台の案内には目も向けなかった人が、香りだけで足を止めるんだな」
「ええ。興味を持つ前の人には、まず立ち止まる理由が必要です」
カイは納得したように頷き、屋台で焼き菓子を一つ注文した。だが、店主に「十リルだよ」と言われた途端、開いた財布を見つめたまま固まった。
「……十リル硬貨は、どれだ?」
財布にあるのは、銅貨ではなく金貨ばかりだった。耳の先を赤くして尋ねる彼に、私は瞬きをしてから十リルを店主へ渡した。
「今日は私が払います。次に来る時は、小銭を用意してくださいね」
「面目ない。次は自分で払う」
舞台の音を聞き分ける人が、硬貨一枚を見分けられない。その落差に、私は初めて彼の前で笑った。
私は鞄から、昨夜描いた街角短演の仮案を取り出した。
「次、があるのか」
「ええ。一週間後、この劇場街の広場で短尺の公演をやります」
私は彼の青い瞳を見つめ返した。
「前売りチケットを販売します。目標は、百枚です」
百枚。現在の客席数三人からすれば、無謀とも言える数字だ。
だが、カイは笑わなかった。ただ、真剣な眼差しで私を見下ろし、小さく頷いた。
「……百枚。わかった。私も今度こそ、小銭を用意して観に行こう」
彼を見送った後、私は劇場へ戻る足を速めた。
元婚約者は借金を見て逃げた。けれど、昨日の三人のうち一人は、次も来ると言った。
まずは、その約束を百人分作る。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル




