第1話 終演後の売り場が、どこにもありません
「終演後の挨拶なし。役者紹介なし。次回券の売り場なし。――これで客が戻るわけがない。」
薄暗く埃っぽい舞台袖から客席を覗き込み、私は小さく、しかし深くため息をついた。
父の葬式を昨夜終えたばかりの私の目に映るのは、重厚だが古臭い古典史劇『王国の礎』の最終幕。そして、二百四十あるはずの客席にポツリ、ポツリと座る、たった三人の観客の姿だ。
昨夜、父の葬儀後の処理に追われ、倒れかけた瞬間。十九歳の男爵令嬢リゼット・フォンテーヌである私に、前世の記憶が戻った。
天宮ひまり。五年続けた地下アイドルの解散公演は、客席の半分も埋まらなかった。最後のカーテンコールでは、ほかの子の名ばかりが呼ばれた。
その後、私は表に立つことをやめた。芸能マネージャーになり、売れないグループを大舞台へ送り出したところまでは覚えている。
三人しかいない客席が、あの夜の暗闇に重なった。拍手の前の沈黙が喉に綿を詰め、指先から熱が消える。
私は帳面を握り直した。傷の中身を確かめるのは後でいい。今は、舞台を興行として診る。
現在、舞台上にいるのはフォンテーヌ座の看板女優ミーシャと主演男優エリックだ。ミーシャの美貌は際立っており、エリックの身のこなしには華がある。彼らの演技力自体は本物だ。絶望的に重い史劇の台詞回しの中でも、間の取り方や視線の動かし方でなんとか観客の目を惹きつけようとしている。
だが、いかんせん演目が酷すぎる。建国の歴史を長々と語るだけの物語など、現代のアストリア王国で日々を忙しく生きる庶民が娯楽として楽しむには退屈すぎるのだ。
それに、いくら役者が良くても、あの三人の客をリピーターにするための導線が何一つ用意されていない。
重々しい音楽と共に幕が下りた。拍手はまばらどころか、ほとんど響かない。
「リゼットお嬢様。……いえ、座長」
暗転した舞台袖で、控えめな声がした。振り返ると、白髪交じりの舞台監督兼執事、セバスチャン・ロウが立っていた。元宮廷俳優でもある彼の顔には、隠しきれない疲労と諦めが深く刻まれている。
「厳しい初日になりましたな。そして、新座長となった貴女に、さらに厳しい現実をお見せしなければなりません」
彼が重々しい手つきで差し出したのは、分厚い革張りの帳簿と、束になった請求書だった。
そこに並んだ数字を見た瞬間、私は眉間を強く揉んだ。
「……借金残高、一千万リル。支払猶予は九十日」
劇場の標準席が二千から三千リルというこの世界において、一千万リルと言えば気が遠くなるような大金だ。
「父は長年、王立認定劇団としての赤字補助金に頼り切って運営していましたからね」
「ええ。そのツケが、先代の急死と共に一気に噴出した形です。おまけに、主力役者五人と裏方への賃金も二ヶ月遅配しています。皆、先代への恩義と演劇への未練だけで残ってくれている状態です」
セバスチャンの言葉に、私は唇を噛んだ。客席三人で一千万リルの借金。まさに倒産寸前のお荷物劇団だ。
「なら、いっそそのオンボロ劇場ごと売り払えばいい。そうすれば借金も消えるだろう?」
背後から響いたのは、この場には不釣り合いなほど軽薄で、やけに自信に満ちた声だった。
振り返ると、豪奢な青い上着を着込み、香水の匂いを漂わせた金髪の青年が立っていた。私の婚約者である、ジュリアン・ボーモンだ。
「ジュリアン様……裏口から勝手に入らないでください。ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「関係者じゃなくなるから、最後のアドバイスをしに来てやったのさ」
ジュリアンは鼻で笑いながら、周囲の古びた大道具や、汗と埃に塗れた役者たちを嫌悪感丸出しで見回した。
「劇団持ちの女はいらない。リゼット、君との婚約は破棄させてもらう。ただでさえ君のところは、親父さんの代から『税金泥棒』と社交界で嘲笑されているんだ。一千万リルの借金ごと嫁に来られては、評議会で補佐職を務める俺の経歴に傷がつくからね」
「……婚約破棄、ですか」
セバスチャンが怒りで一歩前に出ようとしたのを、私は手で制した。
ジュリアンは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、さらに一枚の羊皮紙を私の胸元へ突きつけてきた。それには見覚えのある、文化評議会の仰々しい公印が押されている。
「ついでに、王宮の伝手で早く知らせてやったぜ。文化評議会からのお達しだ。九十日後、フォンテーヌ座の王立認定再審査を行うそうだ」
王立認定。王都中心区での常設公演を行うためには不可欠な資格だ。認定を失えば、この劇場での興行は不可能になる。
九十日。奇しくも借金の支払猶予と同じ期限だ。
「認定基準は安全、収支、観客満足度。今日のザマを見れば結果は火を見るより明らかだ。君もさっさとこんなボロ小屋を手放して、修道院にでも入るんだな」
嘲笑するジュリアンを見つめながら、頭の中では九十日を週と公演回数に割り直していた。
「ジュリアン様」
私は静かに、だが劇場中に響き渡るような、はっきりとした声で言った。
「婚約破棄の件、確かに承りました。この指輪はお返しします」
右手の薬指から銀の指輪を外し、彼の掌に押し付ける。私が泣きすがるとでも思っていたのか、ジュリアンは一瞬呆気にとられた顔をした。
私は彼から視線を外し、セバスチャンに向き直った。
「セバスチャン、劇団は売りません。解散もしません」
「しかし座長、客席は三人、借金は一千万、あと九十日で認定まで剥奪されるのですよ? どうやって……」
「客を戻し、黒字にします。演目を替える。役者の名を売る。席ごとに値を変える。終演後に次の約束を作る――まずは小さな客席で試します」
セバスチャンは帳簿と私を見比べた。
「それで一千万を?」
「一度で返すとは言っていません。最初の一週間で、三人を三十人にします」
「ま、負け惜しみを……! その減らず口がいつまで保つか見せてもらうぞ!」
ジュリアンは顔を真っ赤にして吐き捨てると、足早に立ち去っていった。
彼の足音が消えると同時に、私は舞台袖の壁に貼られていた埃まみれの演目表を引き剥がし、裏返した。
羽ペンを手に取り、なめらかな裏面に新しい計画を書き殴っていく。
「セバスチャン、一週間後に劇場の外、街角で短尺の公演をやります。今やっている演目は今日で打ち切りです」
「街角で!? しかし、それでは王立認定劇団の格式が……それに売るチケットすら……」
「売るものはあります」
私は顔を上げ、不安そうにこちらを見ているミーシャやエリックたち役者の姿を見つめた。
「舞台と役者と、まだ誰にも見つかっていない推しよ」
才能は、見つけた人間に責任がある。
前世で誰にも推されなかった私だからこそ、彼らを客席三人のまま終わらせない。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル




