第36話 客席ではなく、隣に立つ人
「観客満足票、七割……。王国祭典で優勝する劇団でさえ、五割の票を集めれば歴史的快挙と言われるのです。それを七割だなんて、最初から我々を潰すための無理難題に過ぎません」
劇場事務所で、セバスチャンが深い皺を刻んだ額を押さえて呻いた。
旧王立劇場の地下保管庫で、マルセル公爵から突きつけられた条件。達成できなければ王立認定は失効し、王都中心区での常設公演許可も切れる。借金三百十万リルを返せなければ、債権者が劇場を売却する。祭典の開催日程も、一か月後にまで前倒しにされていた。
「条件の正当性は争います。それと並行して、公演は休演日と代役表を守って続けます。数字も出ました」
私は手元の帳簿をパタンと閉じた。
三週間の通常公演純利益:1,860,000リル
小冊子・納品済み魔写絵の純利益:570,000リル
後援会費・共同協賛金:370,000リル
返済額:2,800,000リル
賃金、役者配分、休演日の固定費、安全積立を差し引いた後の数字だ。借金残高は三百十万リル。積み上げた記録が、私たちの背骨を支えていた。
「座長! お客様が……」
エリックが事務所に飛び込んできた。その顔は、ただ事ではない焦りに満ちている。
「エリック、どうしたの? 騒がしいけれど」
「それが、すごい馬車が劇場の前に停まって……! あ、あんた、その服!」
エリックの後ろから、静かな足音を立てて一人の男性が事務所に足を踏み入れた。
見慣れた灰色の外套ではない。深い群青色に金糸の刺繍が施された、王族の正装。胸元にはアストリア王国の紋章が輝いている。
「クラウス様……」
私が驚いて立ち上がると、劇団員たちも一斉に動きを止め、慌てて頭を下げようとした。
クラウス様は手を挙げてそれを制した。
「楽にしてくれ。今日は、一人の観客としてではなく、アストリア王国第二王子として、君たちに伝えなければならないことがあって来た」
彼の灰青色の瞳は、かつてないほど真っ直ぐに、揺るぎない光を宿して私たちを見据えていた。
「私は、王国祭典の審査委員会に、王立文書院副院長および王族の特別監査役として公式に参加する。ただし、フォンテーヌ座の採点からは忌避し、全劇団に共通する手続きと安全記録だけを監査する」
「監査役に……?」
「そうだ。これまで私は、君たちの独立性を重んじるあまり、王族としての名を使うことを恐れ、正体を隠してきた。その結果、君たちを危険に晒し、マルセル公爵の暴走を許した」
クラウス様は私から劇団員たちへと視線を移した。
「私はもう、客席の暗がりから傍観することはない。今度は正体も、自らの行動がもたらす責任も決して隠さない。君たちの舞台を理不尽な権力から守るため、公開の場で、君たちと同じ側に立つと約束しよう」
彼の力強い宣言に、事務所の空気が一変した。
セバスチャンが深く一礼し、エリックやトーマたちも、王子の権威に怯えるのではなく、頼もしい相棒を得たような顔で力強く頷いた。
「よし、俺たちは俺たちの戦いをするだけだ。トーマ、舞台装置の最終確認に行くぞ!」
エリックが空気を読んで声をかけ、劇団員たちは次々と事務所を後にしていった。
最後にセバスチャンが「お茶はお持ちしないでおきますね」と皮肉っぽく笑い、扉を閉めた。
二人きりになった事務所で、クラウス様は少しだけ肩の力を抜き、私に向き直った。
「……驚かせてしまったな。勝手な真似をしてすまない」
「いいえ。貴方が私たちのために、ご自身の立場を懸けてくださったこと、本当に感謝しています」
私が微笑むと、彼は少しだけ視線を伏せ、苦しげに言葉を紡いだ。
「リゼット。祭典での観客満足票七割という条件は、あまりにも過酷だ。もし……万が一、君たちが七割に届かず、認定と劇場を失うような事態になったとしたら」
彼は一歩私に近づき、懇願するように言った。
「その時は、私の私財を投げ打ってでも、君たち劇団員全員の生活を保証する。だから、無茶だけはしないでくれ。君が傷つくことだけは……」
「クラウス様」
私は彼の言葉を遮り、顔を上げた。
前世で地下アイドルだった頃も、マネージャーとして働いていた時も、私は自分の感情をずっと後回しにしてきた。
「成功したら」「状況が落ち着いたら」「私にふさわしい価値が証明できたら」。そうやって恋も幸福も先送りにしてきた結果、最後に残ったのは、舞台袖の冷たい床の上での孤独な死だった。
だから、もう逃げない。自分の幸福を、成功の報酬にはしない。
「祭典の結果がどうであれ、生活の保証を恋の返事にはしません」
私がはっきりと言うと、クラウス様の瞳が揺れた。
「……どういう意味だ?」
「祭典の結果と、私が貴方を選ぶことは、別の帳簿です」
私は彼に歩み寄り、彼の手を取った。
大きくて、少しだけ不器用にこわばったその手を、私の両手でしっかりと包み込む。
「リゼ、ット……?」
「クラウス様。私は、匿名の安全な場所から褒めてくれる後援者ではなく、失敗も危険も隠さず話せる貴方を選びます」
私は彼の目を見つめ、一切の迷いなく告げた。
「祭典の結果が出るまで、答えを先延ばしにするつもりはありません。……どうか、私の隣にいてください」
私の言葉に、クラウス様が大きく目を見開いた。
彼の中で、強固に築き上げられていた「王族としての理性」や「彼女の自立を邪魔してはいけないという配慮」が、音を立てて崩れ去っていくのがわかった。
「……君は」
彼は低く、震える声で呟き、私の手を強く握り返した。
「君は本当に……私の理性を、いとも簡単に狂わせる」
彼の手が私の腰に回り、強く、息が詰まるほど抱きしめられた。正装の硬い生地越しに、彼の激しい心音と熱が伝わってくる。
「私の方が、ずっと前から君の隣に立ちたかった。……手紙を書けない空白の時間が、どれほど恐ろしかったか」
私の肩に顔を埋めた彼が、ポツリと独占欲に満ちた本音をこぼす。
「もう二度と、私から離れないでくれ」
私は彼の広い背中に腕を回し、小さく笑った。
「それは無理な相談です。私には、舞台を指揮するという座長の仕事がありますから」
「……君という人は」
彼もまた、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに低く笑い、私をさらに強く抱きしめた。
窓の外では、王都の空が夕焼けに染まり始めていた。
私たちの最大の決戦である王国祭典は、もう目前に迫っている。
けれど、もう怖くはなかった。私の隣には、誰よりも私の仕事を理解し、共に戦ってくれる人がいるのだから。
* * *
彼女の華奢な身体を腕の中に閉じ込めながら、クラウスは深い安堵と、燃えるような決意を同時に噛み締めていた。
(彼女は保証と想いを切り分け、それでも私を選んでくれた)
王族として生まれ、周囲の人間が自分に求めてきたのは、常に「地位」か「金」か、あるいは「安全な庇護」だった。
だが、リゼットは違う。彼女は客席がたった三人だった時から、自らの足で立ち、一枚ずつチケットを売り、数字を積み上げてきた。彼女が欲したのは、上から与えられる温室ではなく、荒波の中で背中を預けられる相棒としての自分だった。
その気高さが、たまらなく愛おしい。
観客満足票七割という条件に加え、審査委員会を統括するのはマルセル公爵だ。公開規則の外から、どんな異議が出るかは読めない。
だが、結果がどうなろうと関係ない。
もし彼女が舞台を取り上げられ、すべてを失うようなことがあっても、自分は必ず彼女の隣に立つ。彼女の手を引き、また一から、何度でも新しい舞台を作り上げる。
(彼女の推しは、彼女が見つけた役者たちだ。ならば……)
クラウスは、彼女の栗色の髪にそっと口づけを落とした。
(私は、彼女を推す最古参であり続けよう。その光を独り占めはしない)
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:3,100,000リル
【座長業務日誌】
王国祭典への出場権を正式に獲得。クラウス殿下が審査委員会の特別監査役として参加を表明。




