第35話 舞台袖に隠された帳簿
「空っぽ……? そんな、どうして」
ランタンが照らすのは、以前空振りした旧王立劇場の地下保管庫、そのさらに奥だった。
『夜明けの庭』で順序を確定した参照番号は、棚ではなく、旧舞台袖に埋め込まれた搬出用の壁龕を示していた。アルベルト様の監査官、公証人、施設管理官が立ち会い、開扉時刻と封印番号を記録している。
だが、壁龕の主棚も空だった。
「……マルセル公爵の差し金だな」
クラウス様が空の棚に手を触れ、鋭い目で周囲を観察した。
「私が公務から退き、アルベルト卿が特別監査権限を動かしたことで、公爵は我々が不正の証拠に近づいていることを察知したのだろう。……この埃の積もり方を見る限り、ここ数日のうちに急いで運び出された形跡がある」
私は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、冷え切った地下の壁に手をついた。
「……ここまできて、何も見つからないなんて」
絶望が、冷たい泥のように私の足元から這い上がってくる。
文化評議会の腐敗を暴き、劇団の独立を守るための最大の武器が失われた。これでは、目前に迫った王国祭典の本審査で、マルセル公爵の恣意的な評価を覆すことはできない。
その時、舞台装置技師のトーマが、ランタンを高く掲げて保管庫の奥へと進み出た。
「座長、待ってくれ。ここは元々、旧劇場の『舞台袖』の奈落だ」
トーマは壁の一部をコンコンと叩き、何かの感触を確かめている。
「俺たち裏方は、大道具を動かす時に、正規の通路じゃねえ『隠しルート』を使うことがある。……この保管庫の作り、どうも奥の壁の厚さが不自然だ」
「隠しルート?」
私が顔を上げると、トーマは持っていた工具で壁の一部に力を込めた。
ギギギ、と鈍い音がして、一見ただの石壁に見えた部分が、蝶番のついた隠し扉のようにわずかに開いた。
「……なるほど。表の通路から堂々と運び出せば人目につく。公爵の部下たちは、証拠を隠滅するためにこの古い搬出用の隠し通路を使ったというわけか」
クラウス様の目が鋭く光った。
「トーマ殿。この扉の先は、どこへ繋がっている?」
「おそらく、裏通りの荷馬車用の搬出口だろうな。……だが、見てくれ」
トーマが扉の隙間をランタンで照らすと、そこには、慌てて荷物を運び出した際に落とされたであろう、数冊の分厚い革張りの帳簿が転がっていた。
「帳簿……!」
私は弾かれたように隠し扉の奥へ手を伸ばし、埃に塗れたその帳簿を拾い上げた。
表紙にはっきりと『第四年度・補助金管理台帳』と記されている。すべて運び出されたわけではなかったのだ。暗闇と焦りの中で、彼らは重要な証拠の一部を取り落としていった。
「……リゼット、中を」
クラウス様が私の隣に身をかがめ、ランタンの光を当ててくれた。
私は震える手でページをめくる。そこには、文化評議会から支給された補助金の流れが、細かく記載されていた。
だが、その使途の項目には、不可解な記述が並んでいた。
「『黄金の仮面・舞台装飾費名目……三十万リル』。でも、この支払先は『黄金の仮面』の運営会社ではなく、全く別の見慣れない法人の名前になっています」
「どれ、見せてみろ」
クラウス様がその法人名を確認し、低く呻いた。
「……『グルニエ文化振興財団』。マルセル・グルニエ公爵の親族が運営する関連法人だ。安全管理と装飾の補助金が、実際の作業者ではなくここへ送られている」
「では、請負契約と納品記録が必要です。安全費の仕事が本当に行われたのか、最後に誰が受け取ったのか」
帳簿の数字だけでは、《黄金の仮面》の事故との因果も、公爵個人の利得も確定できない。それでも、安全費の流れを追うための入口は、ようやく手の中にある。
「この台帳を、失くすわけにはいきません」
「だが、まだ足りない」
クラウス様が冷静な声で告げた。
「この帳簿で証明できるのは、補助金が関連法人へ送られたところまでだ。役務の実体、最終的な受取人、そしてマルセル公爵の指示を立証するには、まだ弱すぎる」
前世で何度も見てきた、汚い大人たちの常套手段だ。
「では、どうすれば……」
「文化評議会の『公式な議事録』だ。補助金の配分を決定した会議で、誰がこの法人を推薦し、フォンテーヌ座の審査点に何を命じたか。それとこの帳簿を結びつければ、指示系統を法廷で問える」
「議事録……。ですが、そんな都合のいいものが、まだ残されているでしょうか?」
「探すしかない。おそらく、あの男の執務室の金庫か、あるいは……」
その時、背後から複数の足音が近づいた。
現れたのはマルセル公爵と顧問弁護士、施設警備員だった。監査官がすぐに帳簿を証拠袋へ入れ、公証人が封印する。
「文化評議会の保管資料を、財務省が無断で持ち出すおつもりですか」
公爵は証拠袋へ目を落とした。
「特別監査令、施設管理官の開扉記録、発見時からの連続した証人名簿です」
監査官が三通の原本を示す。
「異議は財務監査法院へ提出してください。ここで回収する権限は、どなたにもありません」
公爵の顧問が文面を確かめ、無言で首を振った。
「帳簿の断片だけで、私の指示を証明したつもりですか」
マルセル公爵は声を荒らげなかった。
「補助金の配分は幾人もの書記と委員を経る。下役の誤記や業者の不正を、議長一人の罪へ仕立てるのは雑な政治です」
「だから議事録を探します」
私は封印番号を自分の帳面へ写した。
公爵は私ではなく、周囲の古い舞台機構を見た。
「人気と質を同じものだと思わないことです。安い席を増やし、その日の歓声で芸術を測れば、劇場は目先の刺激を売る市場になる。何世代も残る作品は、訓練された審美眼と、長く支える保護者がいて初めて守られる」
「保護を受ける作品と、消される作品を決めるのが貴方一人でなければ、その議論には応じます」
公爵は薄く笑った。
「祭典で確かめましょう。王国祭典の認定競争は、一か月後に前倒しとなりました」
「なっ……前倒し!?」
私が驚きの声を上げると、公爵は勝ち誇ったように口角を歪めた。
「ええ。国王陛下の御裁可により、祭典のスケジュールが変更されたのです。……一か月後、王都の貴族と市民の前で、人気へ寄せた舞台が文化として残すに値するか、審査を受けていただく。観客満足票が七割を下回れば、認定契約に従い、フォンテーヌ座の王立認定は失効します」
観客満足票七割。
それは、通常の人気劇団でも叩き出すのが難しい、極めて厳しい数字だ。
議事録へたどり着く前に、祭典という「公式の舞台」で認定を問われる。日程変更の真意が何であれ、七割に届かなければ契約通りに負ける。
「大衆の興奮と、文化として残す価値は同じではない。七割を超えたとしても、私は審査の質を問います」
公爵は監査官へ異議申立書を渡し、来た時と同じ速さで去った。
「一か月後……」
私は胸に抱えた帳簿を強く握りしめた。
時間は、圧倒的に足りない。
公爵の不正へつながる議事録を見つけ出し、同時に王国祭典という大舞台で、七割以上の観客に支持される演目を準備しなければならない。
「……リゼット」
クラウス様が静かに振り返り、私を見た。
彼の目には、先ほどの怒りに代わる静かな決意が宿っていた。
「すまない。私の力が及ばず、君たちを祭典という政争の具に巻き込んでしまった」
「謝らないでください、クラウス様。……これは、私たちが最初から望んでいた舞台です。貴族の格式ではなく、観客の拍手で、私たちの劇団の価値を証明してみせます」
私は彼を見つめ返し、きっぱりと言い切った。
「絶対に、負けません」
その夜、私は八時まで『星の継承者』の演出案を書き、未決の箇所へ付箋を残して台本を閉じた。眠らなければ、明日の判断を誤る。
マルセル公爵との最終決戦。
私たちに残された武器は、あの埃まみれの帳簿と、不完全な台本、そして劇団員とお客様が一公演ずつ結んできた信頼だけだった。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:5,900,000リル
【声の広場・観劇板】
投稿者:匿名
おい、王国祭典の日程が急に前倒しになったぞ!? なんでこんなギリギリに!
返信:
フォンテーヌ座への嫌がらせだろ……でも、あの座長ならきっと何かやってくれるはず!
【座長業務日誌】
旧王立劇場の地下にて、関連法人への補助金支出台帳を確保。王国祭典の前倒しが決定。観客満足票七割獲得へ向け、祭典演目の準備を最優先とする。




