第34話 夜明けの庭で、数字を泣かせる
「照明、下手袖の青の晶石を二つ、五の角度。……幕を上げます」
私の合図で、フォンテーヌ座の舞台を隠していた重厚な幕が静かに上がり始めた。
客席にいるのは、特別に招待したアルベルト・クライン財務卿ただ一人。広々とした二百四十席の劇場を完全な貸し切り状態にして、亡き妻エレノア様が残した一人芝居『夜明けの庭』の幕が開いた。
舞台の中央には、予定した発声休止を守るミーシャが、夜明けを待つ孤独な女性として立っている。
彼女は一言も発しない。指先の震え、虚空を見る視線の揺らぎ、立ち姿だけで、深い悲しみとわずかな希望を表した。喉を休める選択は、彼女の演技を損なわない。
私は舞台袖の暗がりに立ち、台本を握りしめながら、彼女の動きに合わせて声を当てる役割を担っていた。
『星は巡り、夜は必ず明ける。たとえこの庭が、誰の目にも触れない場所であったとしても』
私の声が、ピンと張り詰めた劇場内に響き渡る。
台本の指定通り、ノエルが操作する照明が十三パーセントという絶妙な光量でミーシャを照らし出す。薄暗い光の中で、彼女の美しさがより一層引き立っていた。
その瞬間、舞台上の光がわずかに乱れ、袖に隠れている私の足元まで強い光が伸びてきた。
『あっ……』
光を正面から浴びそうになった瞬間、私の視界がぐらりと歪んだ。
前世の記憶。半分も埋まらない薄暗い解散公演の客席。誰にも私の名前が呼ばれなかった、あの地下アイドルとしての最後の日。
拍手を待つ重苦しい沈黙が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。呼吸が浅くなり、台本を持つ手がガタガタと震え始めた。
(駄目、怖い。私なんかが出ても、客席は冷えるだけ。私は、評価されることから逃げてきたのに……!)
トラウマに囚われ、声が詰まりそうになったその時。
舞台上のミーシャが、台本の指示である『三歩下がり、四秒の沈黙』の動きの中で、わずかに視線を袖に向けた。
『座長。私のために、声を繋いで』
無言の彼女の強い眼差しが、そう言っているように見えた。
私は震える足にぐっと力を込めた。
(怖くても、今は声を渡せる。次の一行だけを読む)
前世の空席の幻影を振り払い、私は再び台本に視線を落とした。
『だから私は、ここで種を蒔き続ける。いつか誰かが、この花を見て微笑んでくれると信じて』
震えを殺し、最後まで声を振り絞って、私はエレノア様が残した物語の結末を舞台へ渡した。
『嵐が来て、花が散っても。私は、私が信じた美しさを決して手放さない。……たとえ、私一人が泥に塗れようとも』
その言葉は、文化評議会の腐敗に一人で立ち向かい、劇作家として干されながらも芸術の尊さを信じ抜いたエレノア様自身の魂の叫びだった。
私は、彼女の遺した言葉を、一つ一つ大切に、祈るように紡いだ。
ミーシャがゆっくりと天を仰ぎ、見えない夜明けの光を受け止めるように両手を広げる。
そして、静かに幕が下りた。
客席の中央で、アルベルト様は身動き一つせず、下りた幕を見つめていた。
しばらくの間、深い沈黙が劇場を支配した。
やがて、彼の銀縁眼鏡の奥から、一筋の涙が零れ落ち、膝の上で固く握りしめられた手に吸い込まれていく。
冷徹な金庫番として、すべての予算を数字で切り捨ててきた彼が、初めて一人の「客」として、妻の残した仕事と向き合った瞬間だった。
「……見事な舞台でした」
アルベルト様はゆっくりと立ち上がり、低く掠れた声で言った。
「彼女は、こんなにも美しい景色を、観客に見せたかったのですね。……私は、芸術は腹の足しにならないと、ただの無駄な消費だと切り捨ててきた。ですが、彼女が描こうとした希望は、確かに今、私の心を打ちました」
彼は眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。
「私は間違っていた。芸術と予算を対立させ、彼女の愛した舞台を憎むことで、自分の罪悪感から逃げていただけだった。……彼女は、舞台を奪われてもなお、こんなにも強い言葉を残していたというのに」
私は舞台袖から静かに進み出て、彼に深く一礼した。
「エレノア様の物語は、今日、確かに舞台として完成しました。そして……彼女が残した本当のメッセージも」
私は手元の台本と、先日彼から受け取ったメモの写しを照らし合わせた。
「先ほどの『十三パーセントの光量』『三歩下がり、四秒の沈黙』『青の晶石を二つ、五の角度』。これらの不自然な舞台指示の数字を組み合わせると……『一三三四二五』。王立文書院の旧規格で、旧王立劇場の地下保管庫のさらに奥、『隠し金庫』の座標を示す完全な参照番号になります」
アルベルト様は眼鏡をかけ直し、決意に満ちた強い眼差しで私を見た。
「マルセル公爵は、その隠し金庫に証拠を移したのですね」
「はい。複写して封印した数字を、今の上演順で並べるとこの番号になります。原本を動かさずに照合できます」
アルベルト様は懐から、封蝋のされた分厚い書類を取り出し、私に差し出した。
「約束通り、これを貴女に託します。妻が持っていた『星の継承者』の台本の後半部分。そして……私、財務卿アルベルト・クラインの署名入り『特別監査権限』の証明書です」
「監査権限……! これがあれば、公爵の隠し金庫を堂々と開けることができます」
「ええ。ですが、マルセル公爵も黙ってはいないでしょう。本審査の場である王国祭典は、もう目前に迫っています。……必ず、勝ちなさい」
アルベルト様はそう言い残し、清々しい足取りで劇場を去っていった。
その後ろ姿は、長年背負っていた重い枷からようやく解き放たれたように見えた。
「やりましたね、座長!」
セバスチャンとエリックが、興奮した顔で舞台に駆け上がってきた。
ミーシャも、予定した発声休止を守りながら、私の手を強く握りしめて微笑んでくれている。
「ええ。これで、私たちには最高の武器が揃いました」
私は握りしめた台本と監査証明書を見つめた。
あとは、この証拠を解読し、公爵を追い詰めるだけだ。
(クラウス様……)
この戦いの結末を、早く貴方に伝えたい。
匿名の手紙は止まった。けれど今は、クラウスの実名で届く便箋が引き出しにある。証拠を正式に保全したら、次は手紙ではなく会って報告したい。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:5,900,000リル
【座長業務日誌】
『夜明けの庭』を記録官立会いで上演し、参照番号の順序を確定。アルベルト財務卿より台本後半および監査権限を受領。




