第33話 亡き妻が残した番号
「十三パーセントの光量に、青の晶石を二つ……? いくらなんでも、この舞台指示は細かすぎて不自然です」
昼下がりの劇場事務所。机の上に広げられた一冊の短い台本を前に、私は首を傾げた。
公聴会でジュリアンの偽証を論破し、文化評議会の不当な圧力を跳ね除けた翌日。連日の満員御礼により、借金残高は六百十万リルにまで減っていた。だが、マルセル公爵の資金の流れを示す帳簿へたどり着くための「隠し金庫の場所」の暗号は、未だ不完全なままだった。
そこへ、予告もなくアルベルト財務卿が訪ねてきたのだ。
「公聴会での鮮やかな反証、見事でした。……そして、貴女が提出してくれた新しい支援制度案も、熟読させてもらいましたよ」
アルベルト様はいつもの冷徹な表情をわずかに緩め、私に向かい合って座った。
「パンが必要な人にも、安い席は必要。……貴女のその言葉と、観客の熱狂を味方につけて権力と戦う姿を見て、私は自分の過ちを認めざるを得ませんでした」
「過ち、ですか?」
アルベルト様は静かに目を伏せ、懐から古びた手帳を取り出した。
「私の亡き妻、エレノアのことです。彼女は優れた劇作家でしたが……数年前、文化評議会の補助金が、公爵家と縁の深い法人へ不自然に支出されていることに気づいてしまった」
アルベルト様が絞り出すように語る過去は、あまりにも重かった。
「彼女は不正を告発しようとしました。しかし、逆に公爵の圧力を受け、王都の劇場から完全に干されてしまった。……私は国家の金庫番でありながら、妻がそこまで思い詰めていたことに気づけなかった。そして彼女は、失意と過労の中で病に倒れ、亡くなりました」
アルベルト様が眼鏡を外し、目頭を強く押さえる。
「私は、妻を絶望させた腐敗した芸術の世界を憎んだ。だからこそ、補助金という制度そのものを根こそぎ切り捨ててしまおうとしていた。……芸術を守れなかった、私自身の罪悪感から逃げるために」
冷徹な財務卿の、あまりにも人間らしい後悔の告白。
私は口を挟むことなく、彼の悲痛な思いを受け止めた。
「ですが、貴女たちは権力に潰されることなく、自らの足で舞台を成立させた。……妻が信じていた芸術の力を、貴女たちにもう一度見せられた気がしたのです」
アルベルト様は手帳の中から、数枚の古びた紙片を取り出した。
「これは、妻の遺品の中から見つかったものです。『星の継承者』の台本の後半部分。そして……彼女が死の直前まで執筆していた、私宛ての短い戯曲の台本です」
私が受け取ったその台本のタイトルは、『夜明けの庭』。
パラパラとページをめくると、登場人物は一人だけ。そして、不可解なほど緻密な数字が並ぶ舞台指示(香盤表)が書き込まれていた。
「『十三パーセントの光量』『三歩下がり、四秒の沈黙』『青の晶石を二つ、五の角度』……」
私はその数字の羅列を読み上げ、ハッとして手元の『星の継承者』の暗号メモと照らし合わせた。
「アルベルト様! エレノア様が残した参照番号の後半は、この『夜明けの庭』の舞台指示の中に分散して隠されているんです!」
「何だと……!?」
前世のマネージャー時代、不当な契約書の中に巧妙に隠された数字の罠を見抜いた経験が、ここで生きた。
「マルセル公爵の監視下で、露骨な告発文を残せばすぐに処分されてしまう。だからエレノア様は、ご自身の最後の『作品』の中に、不正を暴くための鍵を織り込んだのです。この舞台指示の数字を繋ぎ合わせれば、隠し金庫の完全な座標がわかります」
「そうか……! リゼット座長、すぐにその数字をすべて抜き出してください。これがあれば、失われた帳簿へたどり着ける……!」
アルベルト様が身を乗り出した、その時。
「原本は今すぐ複写し、財務省と劇団で一部ずつ封印してください」
私は台本を閉じ、ページ順と綴じ糸にも印を付けた。
「数字だけなら抜き出せます。けれど、どの順に読むかは、台詞と動きの前後関係を再現しなければ確定できません。今夜、記録官立会いで上演します」
アルベルト様は台本を見つめた。
「証拠保全と、妻の作品としての上演を同時に行う、と?」
「はい。ミーシャの一人芝居として、貴方に見届けていただきたいのです」
アルベルト様は数秒の沈黙の後、眼鏡を押し上げ、静かに頷いた。
「……わかりました。妻の最後の仕事を、観客として見届けさせてもらいます」
アルベルト様が帰った後。
私はすぐにミーシャを呼び出し、『夜明けの庭』の台本を渡した。
「私の一人芝居……?」
「ええ。ただし、今日は医師の指示による発声休止日です。動きと表情だけで演じてもらい、声は私が舞台袖から当てます」
「座長の貴女が、声を? でも、貴女は舞台に出るのをあんなに……」
「姿は見せませんから、大丈夫です。……それに、これはエレノア様という一人の女性の魂の叫びです。彼女の思いを届けるためには、完璧な『間』を作る貴女の演技と、私が客席の呼吸を読むタイミングを完全に一致させる必要があります」
私の言葉に、ミーシャは真剣な眼差しで頷き、台本を抱きしめた。
夜。
事務所で一人、明日の貸し切り公演に向けた香盤表を作成していると、コツン、と窓を叩く音がした。
驚いて窓を開けると、そこに人影はなく、代わりに一羽の伝書鳩が小さな筒を落として飛び去っていった。
筒の中に入っていたのは、見慣れた上質な便箋だった。
『公聴会で記録を守り抜いたことに、心から敬意を表する。
署名と送金番号を一つずつ示した君の仕事は見事だった。
だが、君が一人で矢面に立ち、すべてを背負い込んでいるのではないかと、私は気が気ではない。
君の隣で、君の盾になれないことが、ひどくもどかしい』
王立文書院からの実名での手紙。クラウス様からだった。
旧王立劇場の空の保管庫を調べた日から、私たちは直接顔を合わせていない。彼が私の自立を尊重し、距離を置いているからだ。
だが、この数行の文面には、理性を保とうとしながらも抑えきれない彼のもどかしさと、私への強い執着が滲み出ていた。
「……ずるいわね。そんな手紙をもらったら、私が甘えたくなってしまうじゃない」
私は便箋を胸に抱きしめ、ぽつりと呟いた。
未遂に終わったあの夜の口づけ。
手紙が途絶えた空白の時間を経て、実名で届いたこの手紙は、匿名時代よりもずっと深く私の心に響いていた。
(待っていてください、クラウス様。この『夜明けの庭』を上演し、参照番号を確定したら……今度は私から、貴方に会いに行きますから)
私は手紙を大切に引き出しにしまい、明日のたった一人のための公演に向けて、覚悟を新たに台本と向き合った。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,100,000リル
【クラウスからの手紙】
君の隣で、君の盾になれないことが、ひどくもどかしい。
【座長業務日誌】
アルベルト財務卿より妻エレノア氏の過去と『夜明けの庭』の台本を受領。参照番号の分散を確認するも、暗号解読の前に作品としての上演を決定。明日、貸し切り公演を実施する。




