第37話 最後の演目は、私たちの物語
「この台詞回しだと、三列目のお客様は確実に眠気を催しますね。……エリック、もう一度第三幕の頭からお願いします」
「わ、わかった。ええと、『ああ、我らが芸術の女神よ! 権威の鎖に縛られしこの嘆きを……』って、やっぱり硬ぇよ座長! 舌を噛みそうだ!」
夕刻のフォンテーヌ座。八時の稽古終了まで一時間、舞台上では王国祭典の演目『星の継承者』を試していた。
クラウス様の母君、セレスティア妃が遺した封印戯曲。芸術の世襲支配を批判したその内容は、確かに文学的には素晴らしい。だが、数名の劇団員に元のままの台詞を読ませてみるという小実験の結果は、惨憺たるものだった。
「ミーシャはどうですか?」
「エリックの言う通りよ。高尚すぎて、私たちが普段相手にしている街のお客様には届かないわ。まるで広場での退屈な政治演説を聞かされているみたい」
二人の率直な反対意見に、私は深く頷き、手元の台本に赤いインクで大きく斜線を引いた。
「ええ、その通りです。どんなに正しい思想でも、観客の感情を動かせなければただの自己満足です」
前世のマネージャー時代、メッセージ性ばかりを重視してエンターテインメント性を疎かにした舞台が、どれほど悲惨な空席を生み出すかを私は身をもって知っていた。
「政治演説ではなく、役者一家の物語に作り替えます。目的は審査員を唸らせることではなく、国立円形劇場の二千人へ届く舞台にすることです」
私は劇団員たちを見回し、改稿の方向性を告げた。
「思想を直接語るのではなく、権力によって小さな劇場を奪われた『役者一家の物語』に再構築します。理不尽に立ち退きを迫られる父親。声を奪われそうになる娘。彼らが観客の拍手だけを頼りに、もう一度舞台を取り戻すまでの奮闘記です」
「なるほど。それなら、今の俺たちの状況そのまんまだな!」
エリックがポンと手を打つ。
「ええ。これならお客様も感情移入できます。エリックが父親役、ミーシャが娘役。……問題は、この物語の時間を進め、観客と舞台を繋ぐ『語り手』の役です」
私が配役表の空欄を指差すと、劇団員たちは顔を見合わせた。
「語り手、か。膨大な台詞量で客の空気を操らなきゃならねえ、一番難しい役だな」
「ええ。単に状況を説明するだけでなく、物語のテーマを最後に観客へ直接訴えかける重要な役回りです。誰か……」
私が適任者を探そうとした時、ミーシャが静かに口を開いた。
「座長。その役、貴女がやるべきじゃないかしら」
「え……?」
私は予想外の言葉に、間の抜けた声を漏らした。
「俺も賛成だ!」
エリックが身を乗り出してくる。
「この劇団の現場を一番よくわかってるのは座長だ。それに、客席の息遣いを読むことにかけては、あんたの右に出る奴はいない。あの『湖の乙女』の沈黙だって、あんたが袖から合図を出したから成功したんだろ?」
「待って、エリック、ミーシャ。私は演出家であって、役者では……」
「でも、座長ならきっとできるよ!」
子役のリリィまでが無邪気な瞳で私を見上げてくる。
劇団員たちの信頼に満ちた視線が、一斉に私に向けられた。舞台の正面に立ち、すべての人間の目が自分一人に注がれる感覚。
その瞬間。
私の視界が、ぐらりと歪んだ。
『――本日の公演をもちまして、私たちは解散します!』
前世の記憶。
半分も埋まらない薄暗い客席。強すぎる照明の熱。
カーテンコールで、仲間たちの名前が次々と客席から呼ばれていく中。
ただ一人、誰からも名前を呼ばれることなく、沈黙の客席に向かって引きつった笑顔のまま頭を下げ続けた、「天宮ひまり」という少女の惨めな姿。
『私なんかが出れば、客席が冷える』
冷たい汗が背中を伝った。心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなる。
私は推される側にはなれない。価値がない。裏方で誰かを成功させる時だけ、自分の存在を許される。その痛烈な恐怖が、私の喉を締め付けた。
「駄目です!」
私は反射的に、鋭く強い声で叫んでいた。
「私は、舞台には立ちません。私が前へ出れば……客席が冷えます」
「座長……?」
私のあまりにも激しい拒絶に、エリックたちが戸惑いの表情を浮かべる。
「私の仕事は、貴方たちを輝かせることです。裏方としてお客様を呼び込み、貴方たちが拍手をもらうための道を作ることです。……私自身が評価される場に出るなんて、あり得ません」
震える声で言い訳を並べるほど、配役表の紙が汗ばんだ指に貼りついた。誰も座っていない席が、前世で私だけを呼ばなかった顔に見える。
「……リゼット」
重苦しい沈黙を破ったのは、舞台袖から静かに歩み寄ってきたセバスチャンだった。
彼は私の手から、赤インクで修正された台本をそっと抜き取った。
「セバスチャン……」
「『星の継承者』の語り手は、名前を呼ばれなかった者が、それでも光を求める姿を見届けます」
セバスチャンは、その台本を私の両手に押し付け、そのしわがれた手で私の手を固く包み込んだ。
「座長は、その言葉が身体に何をするかを知っておられる」
「私は……」
「最もこの言葉を知る者が、語るべきです。名前を呼ぶ稽古の時だけ、貴女の指はいつも冷たくなる。理由を話したくないなら、今は話さなくてよい。それでも、この役から逃げるかは恐怖だけで決めないでください」
セバスチャンのその言葉は、私の魂の奥底に隠していた一番脆い部分を、真っ直ぐに射抜いた。
彼は知っているのだ。私が裏方に逃げ込んだ理由が、謙虚さでも適性でもなく、ただの「恐怖」であることを。
台本の表紙のざらついた感触が、震える手のひらに伝わってくる。
怖い。照明を浴び、観客の冷たい沈黙を前にするのが、死ぬほど怖い。
でも、私は劇団員たちを客席三人のまま終わらせないと誓った。彼らが私へ声を渡そうとしている今、恐怖だけを理由に断りたくない。
ここで私が逃げれば、この物語に血を通わせることはできない。
「……わかりました」
私は長い、長い深呼吸をして、台本を胸に抱きしめた。
「ですが、あくまでこれは『非常時』の備えです。誰かが怪我をしたり、病気で倒れたりした時のための……代役としてだけ、私が稽古をしておきます。本役は、別の役者を探します」
最後の強がりでそう宣言した私を見て、セバスチャンはふっと口元を緩め、「承知いたしました。では、代役としての厳しい稽古を始めましょう」と深く頭を下げた。
その夜。
私は自室の机に向かい、王国祭典に向けた予算表と格闘していた。
借金残高は三百十万リル。この祭典で正規の報酬と地方巡業の権利を手に入れれば、残りを返せる。
ふと、机の隅に置かれた見慣れた上質な封筒に目をやった。
先日の夜、文書院で共に暗号を解読した後、クラウス様から届けられた私信だ。
『リゼット。祭典の前倒しという不利な状況下で、君がどれほど重いものを背負おうとしているか、私には想像することしかできない。
だが、もし君が舞台の暗闇を恐れる夜があるのなら、思い出してほしい。私は観客席の誰よりも先に立ち上がり、君の名前を呼ぶ準備ができているということを』
「……本当に、なんでもお見通しなのね」
私は手紙の文字を指でなぞり、小さく笑った。
彼が私の不安を察知し、こうして言葉を届けてくれる。それがどれほど私の心を温め、震える足に力を与えてくれているか、彼自身はわかっているのだろうか。
「私は推される側にはなれない、なんて……いつまでも逃げてばかりじゃ駄目よね」
私は手紙を大切に引き出しにしまい、台本を開いた。
王国祭典まで、あとわずか。
最後の演目の幕を上げるため、私は自分自身の恐怖と向き合う決意を固めた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:3,100,000リル
【クラウスからの手紙】
もし君が舞台の暗闇を恐れる夜があるのなら、思い出してほしい。私は観客席の誰よりも先に立ち上がり、君の名前を呼ぶ準備ができているということを。
【座長業務日誌】
祭典演目『星の継承者』の改稿完了。語り手役について、座長自ら非常時の代役として稽古を開始する。




