第31話 令嬢は劇場へ来てはいけませんか
「……『身分を弁えぬ平民と貴族の令嬢を同席させるフォンテーヌ座のサロンは、王都の風紀と格式を著しく乱すものである』。……ですって」
翌日の朝、劇場の事務所で、魔法掲示板《声の広場》の公式告示枠に貼り出された声明文を読み上げ、私は椅子の背にもたれた。
発信元は文化評議会。マルセル公爵派の貴族たちによる、私たちへの新たな攻撃だった。
前日、旧王立劇場の地下保管庫で帳簿を空振りに終わらせた焦燥が冷めやらぬうちに、今度は私たちの「居場所」そのものを狙い撃ちにしてきたのだ。
「風紀を乱す、だと? 冗談じゃねえ!」
記事を見たエリックが机を叩いた。
「後援会のサロンは、お客さんが純粋に芝居の感想を語り合う場所だろ。いかがわしいことなんて何一つ起きてないじゃないか!」
「ええ。ですが、彼らにとっては『貴族と平民が同じテーブルでお茶を飲む』こと自体が、秩序を乱す許しがたい行為なのでしょう」
セバスチャンが苦々しい顔で言った。
「座長。文化評議会からの正式な警告となれば、無視するわけにはいきません。最悪の場合、これを口実に再び認定停止を食らう可能性があります。……不本意ですが、サロンを身分ごとに分けるか、一時的に閉鎖するしか……」
「それは駄目です」
私はセバスチャンの提案を即座に却下した。
前世で、ファン同士のコミュニティを運営側の都合で強引に分断した結果、熱量が急速に冷めてファンが離れていくのを何度も見てきた。それに、あのサロンはヴィオラ様が大切に育ててきた、彼女たちの本当の「居場所」なのだ。それを圧力に屈して潰すことはできない。
「あら、セバスチャン。ずいぶんと弱気なことをおっしゃるのね」
バンッ! と勢いよく事務所の扉が開き、上質なドレスに身を包んだヴィオラ様が乗り込んできた。
彼女の手には、先ほどの評議会の声明文の写しが握り潰されている。
「ヴィオラ様……」
「リゼット。わたくし、生まれて初めて心の底から激怒しておりますのよ」
ヴィオラ様は怒りで肩を震わせながら、ズンと私の前に進み出た。
「わたくしたちが、一体何の風紀を乱したというのかしら。ドレスの流行や見栄の張り合いしか話題にない退屈なお茶会より、エリックのステップやミーシャの視線の素晴らしさを語り合うサロンの方が、何百倍も有意義で健康的ですわ! それを、演劇の欠片も愛していない頭の固い老人たちに否定される筋合いはなくてよ!」
彼女の言葉には、居場所を奪われようとしている切実な怒りが込められていた。
「わたくし、絶対に屈しませんわ。リゼット、紙とペンを貸してちょうだい」
ヴィオラ様は私の机の前の椅子に座ると、真っ白な羊皮紙に向かって猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
「ヴィオラ様、何を……?」
「『公開意見書』ですわ。文化評議会に対する、わたくしたち観客からの反論よ」
「公開意見書……!? しかし、貴族令嬢であるヴィオラ様が、評議会に公然と刃向かうような真似をすれば、ご実家にも累が及ぶのでは……」
セバスチャンが青ざめて止めるが、ヴィオラ様はペンを止めなかった。
「わたくし一人の名前なら、そうなるでしょうね。でも、これはわたくしたち『全員』の意見です」
書き上がった意見書を、彼女は高く掲げた。
そこには、理路整然とサロンの健全性が説かれ、芸術を楽しむ権利に身分は関係ないという力強い主張が書かれていた。
「この意見書に、サロンに参加しているすべての女性の連名で署名を集めます。貴族の令嬢、商家の奥方、女職人。……身分も職業も違う何百人もの女性が、一つの舞台のために連帯して名前を連ねれば、評議会も無闇に手出しはできなくなりますわ」
私はヴィオラ様のその提案に、鳥肌が立つような感銘を受けた。
「……素晴らしいです、ヴィオラ様。ですが、署名した方が家や取引先から圧力を受ける危険は隠せません」
「座長! ですが、もし署名が集まらなかった場合は、主犯としてヴィオラ様や劇団が孤立することに……」
私は署名用紙の冒頭に、想定される不利益と撤回期限を書き加えた。
「個人名を出せない方には、所属組合を通した連名意見も用意します。ノエル、二種類を複製して。ヴィオラ様、署名数が少なくても水増しはしません。それでも進めますか?」
「もちろんですわ。数の大小まで、わたくしたち自身の答えですもの」
その日の午後から、劇場の前で異例の署名活動が始まった。
ヴィオラ様が自ら筆頭となり、通りかかる人々に声をかける。最初は遠巻きに見ていた人々も、彼女の熱意と理路整然とした主張に耳を傾け始めた。
「いつも美味しいパンを焼いてくれる奥さんも、素敵なドレスを仕立ててくれるお針子さんも、わたくしたちと同じように舞台を愛する仲間です! 令嬢は劇場へ来てはいけないのですか? 平民の女性が芸術を語ってはいけないのですか? いいえ、芸術は誰の心にも平等に火を灯すものですわ!」
その訴えに、サロンの常連だった商家の女性たちが次々と駆けつけ、署名に名前を書き連ねていく。
「伯爵令嬢様にだけ背負わせるわけにいかないわ! 私も書くわ!」
「あたしも! あのサロンのおかげで、毎日の仕事が頑張れるんだから!」
身分の壁を越えた女性たちの連帯は、驚くべきスピードで広がっていった。
そして、その日の夜公演。
『恋するパン屋と秘密のレシピ』のカーテンコールで、看板女優のミーシャが一歩前へ歩み出た。
彼女は客席を埋め尽くす観客たち――特に、最前列で署名活動の疲れも見せずに目を輝かせているヴィオラ様や女性ファンたちに向かって、深く、優雅な礼をした。
「本日はご来場、誠にありがとうございます。……私たち役者は、舞台の上でしか生きられません。ですが、皆様が劇場の外で、私たちのために戦ってくださっていることを、私たちは知っています」
ミーシャの声は、拡声器も魔法もない劇場の中に、澄み切って響き渡った。
「皆様が守ろうとしてくださるその場所で、私たちはこれからも最高の演技をお届けすることをお約束します。……本当に、ありがとう」
ミーシャの飾りのない感謝に、客席からすすり泣きが漏れ、やがて万雷の拍手が劇場を揺るがした。
好きな役者からの直接の感謝に、署名台の女性たちは泣きながら拍手を返した。
翌日、評議会へ提出された意見書には、個人名と組合連名を合わせて五百名を超える署名が記されていた。三十七名は署名を見送り、二つの貴族家からは撤回要求も届いた。その数も伏せずに添付した。
文化評議会は、意見聴取が終わるまでサロンへの閉鎖命令を出さないと回答した。新規参加の問い合わせは増えたが、定員を倍にはせず、席を交代制にして安全を守ることにした。
「やりましたね、リゼット!」
事務所で、ヴィオラ様が誇らしげに胸を張った。
「ええ。ヴィオラ様の勇気ある行動のおかげです」
私は深く感謝し、彼女と固い握手を交わした。
通常公演の純利益二十四万リルと、後援会・共同協賛の純利益六万リルを返済へ回し、借金は六百五十万リルまで減った。
だが、マルセル公爵がこのまま引き下がるはずがない。
夜、私が一人で帳簿を整理していると、再び通信晶石が警告音を鳴らした。
今度は、王立文書院からの暗号化された極秘通信。発信者はクラウス様だった。
『リゼット。至急、警戒してくれ。
マルセル公爵が次の一手を打ってきた。彼らは文化評議会の権限で、フォンテーヌ座の認定取り消しを問う「公開公聴会」を三日後に開くことを決定した』
「公開公聴会……!?」
読み進める手が止まった。
『それだけではない。公爵は、君たちの認定を失わせるため、ある男を「劇団の不正を告発する重要参考人」として喚問する手はずを整えている』
通信越しに伝わるクラウス様の声は、かつてないほど緊迫していた。
『その男の名は……ジュリアン・ボーモン。君の元婚約者だ』
「ジュリアンが、告発の証人……?」
私は通信晶石を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
公爵の庇護のもとで評議会補佐職に収まっている彼が、嘘の証言をして私たちを陥れようとしているのは明らかだ。
『私は文書院の立場から、公聴会の規則や過去の判例をすべて洗い出しておく。君たちも、彼の偽証を崩すための証拠を集めてくれ。……負けるな』
「はい。ありがとうございます、クラウス様」
私は通信を切り、暗い事務所の中で鋭く目を細めた。
ジュリアン・ボーモン。
かつて私の劇団を嘲笑し、切り捨てた男が、今度は権力の手先となって私たちの前に立ちはだかる。
「受けて立つわ。私たちの満席の記録と、積み上げてきた信頼の重さを、その身に刻み込ませてあげる」
私は決意を胸に、反撃のための資料作成に取り掛かった。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,500,000リル
【声の広場・観劇板】
投稿者:匿名
サロンの意見書、私も署名した! 舞台の感想を語り合う場所を奪わせない!
返信:
ミーシャの感謝の言葉に泣いた。フォンテーヌ座のファンでよかったよ。
【座長業務日誌】
女性観客らの連名による公開意見書を評議会へ提出、サロン防衛に成功。三日後に公聴会開催決定。ジュリアンが証人として喚問される模様。




