第30話 名前を知ったあとの距離
「第三年度、帳簿丙の二十二……該当する資料はありません。次をお願いします」
「わかった。次は、第四年度の帳簿丙、三十四番だ」
夜の王立文書院。閉館を告げる鐘まであと一時間。ランプの淡い光が照らす机の上には、埃を被った古い行政記録と、『星の継承者』の台本が広げられていた。
私とクラウス様は、肩が触れ合いそうな距離で横に並び、エレノア様の残した暗号メモの数字を、財務省の旧式保管規則と一つずつ照らし合わせる作業を続けていた。
「第四年度……ありました。旧王立劇場の改修記録です」
私が指差した項目を、クラウス様が素早く書き写していく。
静かな書庫には、紙をめくる音と、二人の規則的な呼吸の音だけが響いている。
(近いわ……)
資料を覗き込むたびに、彼の腕が微かに私の肩に触れ、その度に心臓が不自然なリズムを刻んだ。
手紙――匿名後援者Kとしての彼となら、私は自分の弱音でも、劇団のありのままの実情でも、嘘偽りなく書き連ねることができた。彼もまた、的確で優しい言葉を返してくれた。
だが、こうして実名を明かし、生身の人間として隣に座ると、途端に何を話せばいいのかわからなくなる。喉の奥に言葉が引っかかって、私はただひたすらに数字の確認作業へと逃げ込んでいた。
「……リゼット」
不意に、クラウス様が羽ペンを置き、静かな声で私の名前を呼んだ。
「はい、何でしょうか。照合に間違いが?」
「いや、作業の話ではないんだが」
彼は少し視線を泳がせ、言い淀むように小さく息を吐いた。
「……エリック殿とは、いつもあのように距離が近いのか?」
「えっ?」
予想外の質問に、私は思わず瞬きをした。
「いや、その……座長と主演男優という立場にしては、少々距離が近すぎるのではないかと思ってね。彼が君を愛称で呼ぶのも、劇団内の規律という観点から見てどうなのかと。もちろん、私はただの外部の人間だから、君たちの関係に口を出す権利は一切ない。全く気にしていないし、ただの一般的な疑問だ」
早口でまくし立てる彼の言葉には、「否定」がこれでもかというほど詰め込まれていた。
前世でタレントの管理をしていた頃、恋愛感情の縺れがグループを崩壊させるのを何度も見てきた。だからこそ、私は役者たちとの間に一定の線を引いているつもりだった。
「エリックは気さくな性格ですから。それに、私と彼の間には、舞台を作る同志としての信頼以上の感情は一切ありませんよ」
私がきっぱりと答えると、クラウス様はホッとしたように肩の力を抜いた。
「そうか……。いや、気に障ったならすまない」
「もしかして、クラウス様」
私は少しだけ意地悪な気持ちになり、彼の顔を下から覗き込んだ。
「先日、私がエリックと演出会議をしていた時に、分厚い本を逆さまに持ちながら私たちの間に割り込んできたのは……嫉妬、ですか?」
その瞬間、クラウス様の顔が見る見るうちに赤く染まった。
「ち、違う! あれは本当に、光の反射から感光紙を守るための……いや、演劇史の確認で……!」
必死に理屈を並べて否定しようとするが、優秀な頭脳を持つ第二王子の顔には、隠しきれない狼狽が張り付いていた。
やがて、彼は深くため息をつき、両手で顔を覆った。
「……ああ。そうだ。彼が君の隣で親しげに笑っているのが、ひどく妬ましかった」
彼が指の隙間からこぼした本音に、私は驚いた。
これまでは「気にしていない」と意地を張っていた彼が、あっさりと自分の嫉妬を認めたのだから。
「君の言う通りだ。私は君の自由を守るつもりで、安全な場所から見守るふりをしながら……実際は、他の誰かが君の傍にいることに耐えられなかった。本当に、私は愚かだ」
自嘲気味に笑う彼の顔を見て、私は思わず「ふふっ」と声を出して笑ってしまった。
「……私が余裕を失っているのが、そんなに面白いか」
クラウス様が少し拗ねたように私を見る。
「ごめんなさい。でも、なんだか安心したんです」
私は手元の資料から手を離し、彼の灰青色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「いつも冷静で、完璧な配慮をしてくれるKさんが、そんな風に理性的じゃない顔をするんだなって。……匿名時代の、完璧な手紙よりも、今の貴方の方がずっと人間らしくて、好きです」
私が素直な気持ちを伝えると、クラウス様は一瞬言葉を失い、その瞳に静かな熱を灯した。
「……リゼット」
彼が私の名前を呼び、ゆっくりと身体を向けてくる。
長机の下で、彼の大きな手が、私の手にそっと重なった。今度は、偶然触れたわけでも、すぐに離れるわけでもない。確かな意思を持った、温かい拘束だった。
「近づいても、いいか?」
彼の低く甘い声が、耳元をくすぐる。
王族としての彼ではなく、ただの一人の男性としての、不器用な許可の求め方。
速くなった脈を抑えきれず、私は小さく、こくりと頷いた。
クラウス様の顔がゆっくりと近づいてくる。ランプの光が彼の長いまつ毛の影を落とし、香水の匂いがふわりと強くなる。私はそっと目を閉じ――。
「ゴホンッ!!」
静寂の書庫に、雷鳴のような鋭い咳払いが響き渡った。
私とクラウス様は弾かれたように身体を離し、同時に振り返った。
書庫の入り口には、腕を組んだセバスチャンが、氷のように冷ややかな顔で立っていた。
「お二人の調査に対する並々ならぬ『熱意』は大変結構ですが。……ただいま閉館の鐘が鳴りましたぞ。帰りの馬車を待たせております」
現実的な数字と皮肉を込めたセバスチャンの言葉に、私は顔から火が出そうになった。
「み、見つかりました! たった今、すべての照合が終わったところです!」
私は慌てて机の上の資料をかき集めた。クラウス様も、誤魔化すように不自然な手つきで羽ペンを片付けている。
「アルベルト様の奥様が残した参照番号は、すべて『旧王立劇場の地下保管庫』を示していました」
私は高鳴る心臓を無理やり落ち着かせ、マネージャーの顔を作ってセバスチャンに報告した。
「現在の文化評議会本部ではなく、十年前の改装時に使われなくなった旧施設のB区画三十四番。そこに、評議会から関連法人へ流れた補助金の記録が隠されているはずです」
「旧王立劇場の地下ですか……! あそこなら、今はほとんど人が立ち入りません。すぐにトーマたちを向かわせ、証拠を確保しましょう」
セバスチャンの言葉に、クラウス様も表情を引き締めた。
「文書院の施設管理官へ立会いを申請する。旧施設担当者と公証人、それに保管庫の親鍵が揃えば、開扉の記録を残せる」
彼の力強い言葉に、私は深く頷いた。
翌朝、施設管理官と公証人が揃ってから、私たちは旧王立劇場へ向かった。
廃墟同然となった旧劇場の重い扉を開け、埃っぽい地下通路をランタンの明かりを頼りに進んでいく。
「ここです。B区画、三十四番保管庫」
クラウス様が古びた鉄格子の前で足を止めた。施設管理官が錠前と封印を公証人に確認させ、台帳へ時刻を書いてから親鍵を差し込む。錆びた錠は二度目で外れ、私たちは立会人とともに中へ入った。
「帳簿は……」
私はランタンを高く掲げ、保管庫の中を照らした。
だが、そこに広がっていた光景に、私は絶句した。
「……どういうことだ」
クラウス様の声が、冷たく低く響く。
厳重に隠されていたはずの保管庫の中は、見事に空っぽだった。
棚という棚から書類が持ち去られ、床には書類を束ねていたであろう紐の切れ端だけが散乱している。
「先を、越された……?」
私が呆然と呟く。
いつ、誰が帳簿を動かしたのかはわからない。施設管理官が過去の入室簿を押さえ、公証人は空の棚と切れた紐を記録した。
手元にあるのは、エレノア様が残した暗号のメモと、帳簿が指定場所にないという事実だけ。これでは、公爵の関与は立証できない。
「そんな……ここまで、たどり着いたのに」
膝から崩れ落ちそうになった私を、クラウス様が横からしっかりと支え止めた。
「諦めるな、リゼット」
彼の目は、暗闇の中でも決して絶望に染まってはいなかった。
「帳簿を動かしたということは、必ずどこかに痕跡が残る。マルセル公爵は証拠を消したつもりだろうが、我々はまだ、舞台を降りてはいない」
彼の力強い腕の感触に、私は再び前を向くための息を吸い込んだ。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,800,000リル
【座長業務日誌】
文書院にて暗号の照合完了。旧王立劇場の保管庫を特定するも、不正帳簿はすでに持ち去られた後だった。次の一手を検討する。




