第29話 今度は私から手紙を書きます
『まだ許していません。選択肢を奪わないという名目で、一番重要な事実を隠していた貴方のやり方を、私は座長として肯定することはできません。
それでも、私はこの戯曲を、貴方と一緒に読みたいのです』
王立文書院へ宛てた手紙のインクが乾くのを見届け、私はその便箋を丁寧に折りたたんだ。
宛名は「カイ・リヒター様」でも「K様」でもない。
『クラウス・フォン・アストリア殿下』。
彼の実名であり、本来なら一介の男爵令嬢である私が、個人的な手紙を送ることなど許されない雲の上の名前だ。
だが、私はあえてその名前を書いた。
身分を隠した彼に甘えるのではなく、王族としての彼に平伏すのでもない。対等な一人の人間として、そして劇団の責任者として、彼に調査の協力を求めるためだ。
セバスチャンに託した手紙は、その日の昼下がりには王立文書院へと届けられた。
返事が来たのは、夕方の公演に向けた準備が佳境に入っている頃だった。
「座長、文書院からのお返事です」
セバスチャンが恭しく差し出した封筒には、王家の仰々しい蝋封は押されていなかった。簡素な、しかし上質な封蝋。宛名には私の名前だけが、見慣れた流麗な筆跡で記されている。
私は人目のない自室に戻り、少しだけ冷たくなった指先で封を切った。
『リゼット・フォンテーヌ座長。
君の怒りはもっともだ。私は君を尊重するふりをして、結果に対する責任から逃げていたに過ぎない。不作為がどれほど人を傷つけるか、君に指摘されるまで気づけなかった自分の愚かさを恥じている。
だが、その非を言い訳で取り繕うことはしない。私を許すかどうかの判断は、すべて君に委ねる』
文面には言い訳がなかった。
「……本当に、どこまでも真面目な人」
私は小さく息を吐き、手紙の続きに目を落とした。
事務的な調査協力の承諾と、夜の文書院への招待が書かれたその後の、最後の一行。
そこに記された言葉を見て、紙を持つ指に力が入った。
『――あなたに会えない日を、仕事だけで埋めるのは難しい』
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
称賛でも、助言でもない。会えない、と実名で書かれている。
「……反則よ、こんなの」
私は手紙で顔を覆い、自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
まだ許していないと書き送った私に対して、彼は謝罪と調査協力の承諾だけを返し、最後にたった一行だけ、自分の弱さと本音を忍ばせたのだ。
怒りが消えたわけではない。それでも、会って話したいと思った。
その夜。
昼公演と夜公演の熱狂が嘘のように静まり返った後、私は厚手のショールを羽織り、セバスチャンが手配してくれた馬車で王立文書院へと向かった。
文書院の裏口で待っていたのは、白髪の老文官だった。
「お待ちしておりました、フォンテーヌ座長。……殿下は、奥の第三特別書庫におられます」
案内された書庫は、王立認定の調査で以前彼と一緒に訪れた一般閲覧室とは違う、さらに奥深くの厳重な扉の向こうにあった。
重い木の扉を開けると、魔力で灯る淡い照明の中、高い天井まで届く書架に囲まれた空間に、彼がいた。
「……来てくれたんだな」
執務机から立ち上がった彼は、いつもの灰色の外套ではなく、濃紺の仕立ての良い夜着を身に纏っていた。第二王子としての彼と、こうして正面から対峙するのは初めてのことだ。
「お招きいただき、ありがとうございます。クラウス殿下」
私が一礼すると、彼は苦笑して首を横に振った。
「その呼び方は、背筋が寒くなる。ここでは今まで通り、カイと呼んでくれないか。……いや、それは私が君を騙していた時の名前だったな」
「では、クラウス様と」
私がそう呼ぶと、彼はわずかに目を見開き、やがて安堵したように表情を和らげた。
「ああ。それがいい」
私は鞄から二通の書類を取り出し、机の上に並べた。
「一つは、アルベルト財務卿の亡き妻エレノア様が、貴方のお母様の戯曲に書き残した暗号メモの写しです。そしてもう一つは、私と貴方が交わす『調査協力契約書』です」
私は二枚目の羊皮紙を彼に差し出した。
「条件は一つだけ。貴方は文書院の知識を提供し、私は舞台の現場知識を提供して、共同で文化評議会の不正の証拠を探すこと。この協力関係において、貴方が当劇団の演目や人事、経営方針に介入する権利は一切生じません。……よろしいですね?」
王子と男爵令嬢の間に交わされるには、前例の少ない対等な契約だ。
だが、クラウス様は一切の躊躇なく羽ペンを手に取り、その契約書にさらさらと自分のサインを書き込んだ。
「演目への介入権がないことは、一番最初の後援契約の時に三度も確認したはずだが?」
「あの時は、貴方が王子だとは知りませんでしたから。念には念を入れるのが、私の仕事の流儀です」
私が契約書を回収すると、彼はふっと息を吐いて微笑んだ。
「君は、本当に変わらないな。私が王子だと知っても、怯えもせず、媚びもせず、ただ劇団のために一番正しい契約を突きつけてくる」
「失望しましたか?」
「いや。君が私の身分ではなく、私という人間を見てくれていることが、心底嬉しい」
真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳の熱量に、私は今日手紙で読んだあの最後の一行を思い出し、慌てて視線を逸らした。
「……さ、調査を始めましょう。時間がありません」
私は机の上に暗号のメモを広げた。
「この『B区画の三十四』『第四年度・帳簿丙』という数字の羅列。安全検査費の流れを確かめられる帳簿の場所だと考えています。ですが、王都のどの建物の書庫を指すのかがわかりません」
クラウス様はメモを覗き込み、長い指でその数字をなぞった。
「なるほど。確かにこれは、一般的な王立劇場の備品管理番号とは形式が違うな。……しかし、この『丙』という分類の仕方は、王宮財務省の旧式の保管規則に似ている」
「財務省の保管規則?」
「ああ。アルベルト卿が財務卿に就任する以前、旧体制下の財務省が使っていた古い書庫の分類法だ。もしエレノア殿がその規則を知っていたなら……探すべきは現在の評議会の本部ではなく、使われなくなった旧施設のどこかだ」
クラウス様の頭脳は、私の断片的な情報から、瞬時に新しい糸口を引き出してくれた。
彼が次々と資料の束を広げ、関連する古い区画図を探し出し始める。
その横顔は真剣そのものだ。嫉妬で本を逆さまに持っていた人と同じとは思えない。
(この人は、本当に……有能で、不器用な人)
静まり返った夜の王立文書院。
広大な書庫の片隅で、ランプの灯りに照らされた机に向かい、私たち二人は肩を並べて古い資料の海へと潜っていく。
時折、彼が指差す資料を確認するために顔を寄せると、彼の腕が私の肩に触れそうになり、互いにハッとしてわずかに距離を取る。
手紙が途絶えていた数日間を埋めるようで、まだ踏み込めない距離だった。
誰もいない夜の文書院には、紙をめくる微かな音と、二人分の静かな呼吸の音だけが、優しく響いていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,800,000リル
【座長業務日誌】
クラウス殿下と対等な調査協力契約を締結。夜の王立文書院にて、暗号メモの解読作業を開始。




