第28話 まだ許していません
『クラウス・フォン・アストリア殿下』
机の上に広げた上質な便箋には、そこまでしか書かれていなかった。
昨夜、確かな覚悟を持って宛名を書き記したはずだった。だが、羽ペンにインクを浸したまま、そこから先が一文字も続かなかったのだ。朝の冷たい光が事務所に差し込む中、私は乾いてしまったペン先を見つめ、深く、重い息を吐き出した。
「……書けないわ」
私は便箋から目を逸らし、両手で顔を覆った。
マルセル公爵の不正を暴き、劇団を守るためには、エレノア様が戯曲の余白に残した暗号を解読しなければならない。そのためには、王立文書院の膨大な資料と歴史に精通している彼の知識がどうしても必要だ。
理屈ではわかっている。彼に協力を求めることが、座長としての最も合理的で正しい判断だと。
けれど、どうしても感情が追いつかない。
前世で芸能マネージャーをしていた頃、私は何度も「情報を隠される」ことの恐ろしさを味わってきた。上層部の不透明な決定、出資者の隠された意図。現場の人間が何も知らされないまま危険だけを負わされ、問題が起きた時にはトカゲの尻尾切りのように切り捨てられる。
だからこそ、私は情報の非対称性を何よりも嫌う。
クラウス殿下が身分を隠していたのは、私を騙して陥れるためではない。王族の名で私の舞台を「所有物」にしないための、彼なりの不器用な配慮だった。
それは頭では理解している。
「でも……まだ、許していません」
私は誰もいない事務所で、ぽつりと呟いた。
自由に選ばせたつもりで、一番重要な判断材料を隠し、安全な場所から見守るだけの傍観者でいたこと。その『善意の不作為』が、結果として協賛店のパン屋を危険に晒したこと。
その怒りと不信感が、彼への助けを乞う言葉を喉の奥でせき止めていた。
「座長。朝早くから失礼します」
重い空気の中に、セバスチャンの落ち着いた声が響いた。
彼の手には、分厚い書類の束が抱えられている。
「どうしたの、セバスチャン。その書類は?」
「先ほど、王立文書院の使いの者が届けてまいりました。当劇団宛てに、過去の劇場建築に関する公開資料の写しが送られてきたようです」
「文書院から……?」
私は弾かれたように立ち上がり、セバスチャンから書類の束を受け取った。
表紙には、確かに王立文書院の公印が押されている。中身をめくると、数十年前の王都の区画整理の記録や、旧王立劇場の増改築に関する建築図面、そして文化評議会が設立された当時の古い帳簿の保管規則などがびっしりと綴られていた。
すべて、私たちがこれから探そうとしていた暗号の解読に直結する、喉から手が出るほど欲しい情報だった。
「……手紙は、入っていませんでしたか?」
私が尋ねると、セバスチャンは首を横に振った。
「いいえ。公的な資料の目録が添えられているだけで、個人的な手紙や伝言などは一切ありませんでした」
私は書類の束を机に置き、受理番号を確かめた。昨日、一般窓口へ出した閲覧請求への正式な回答だ。どの資料にも公開区分と複写料が記され、私にだけ許された閲覧物は一つもない。
それでも、請求範囲の中から必要な年代と分類法が、迷いなく選ばれていた。彼が副院長として通常の手続きを通し、選別したのだろう。
「手伝おう」とも、会いたいとも、許してほしいとも書かれていない。誰でも請求できる資料だけが、照合可能な形で届いた。
(私が怒っている理由を、本当に正しく理解しているのね)
彼は、会うことも許しを乞うこともせず、誰でも閲覧できる資料だけを送った。
「……不器用すぎるわ」
私は小さくため息をつきながら、資料の束を丁寧に確認していった。
すると、分厚い図面の間に、小さな紙包みが挟まっているのに気がついた。
「何かしら、これ」
包みを開けると、中からチャリン、と硬い音がして、三枚の銅貨が手のひらに転がり落ちた。
合計で三十リル。
そして、その硬貨に添えられるように、小さく折り畳まれた紙片が入っていた。
『受領書
一、銅貨三枚(金三十リル也)
右、街角の屋台における胡桃パン代金の立替分として、確かに返済を受領したことを証明する。
返済人:クラウス・フォン・アストリア』
そこには、王立文書院の副院長としての、いや、アストリア王国第二王子としての正式なサインと、仰々しい公印がしっかりと押されていた。
紙包みの内側には、『返す』『弁償』『返済』と、言葉を選び直した薄い試し書きの跡が残っていた。たった三十リルのために、彼はどれほど真剣な顔でこの文面を考えたのだろう。
「……ふっ」
私は思わず、吹き出してしまった。
たかが胡桃パン一つの代金だ。案内札を売った広場で、彼が小銭を見分けられずに立ち尽くした時、私が立て替えた三十リル。
こんなもの、普通の貴族ならとっくに忘れているか、後で適当な宝石でも贈って相殺するところだろう。
だが、彼は覚えていた。
そして、個人的な感情や愛の言葉を一切封印したこの無機質な資料の束の中に、彼なりの最大限の「誠意」として、わざわざ公的な領収書までつけて小銭を返してきたのだ。
(……こんなの、笑うしかないじゃない)
頭の中で、灰色の外套を着た彼が、この領収書をどんな顔をして書いたのかが容易に想像できた。きっと、大真面目な顔で「三十リルに対する正式な法的処理」を考え抜いたに違いない。
彼からの一切の言い訳を含まない、ただの三十リルの返済。
それが、私の心の中で固く結ばれていた怒りの糸を、ほんのわずかに、けれど確実に解きほぐしていくのを感じた。
「セバスチャン」
私は手元の三十リルの銅貨を財布にしまい、振り返った。
「この資料のおかげで、暗号の解読の目処が立ちそうです。ですが、文書院の過去の区画整理と照らし合わせるには、やはり専門家の知識が要ります」
「では、やはりクラウス殿下に……?」
「ええ」
私は昨夜書いたまま放置していた便箋を破り捨て、真新しい白紙の便箋を机の真ん中に置いた。
「私はまだ、彼を許していません。情報を隠されていたことは、劇団の座長として到底看過できない問題ですから」
私ははっきりと言い切った。
「ですが、『許し』と『必要な協力』は別です。彼には必要な知識があり、私たちには証拠が必要。これは、演目や劇団の運営に一切の介入を許さない、対等な調査協力の契約です」
私の言葉に、セバスチャンはふっと口元を緩め、深く一礼した。
「承知いたしました。……座長がそうお決めになったのなら、我々は全力でそれを支えるのみです」
私は深く息を吸い込み、羽ペンを握り直した。
彼が私の怒りを尊重して距離を置くというのなら。彼が私の選択を奪わないために、ただ資料だけを送りつけて沈黙するというのなら。
今度は私から、彼に選択を迫る番だ。
匿名のファンとしてでもなく、庇護者としてでもなく。共にこの巨大な理不尽と戦う、対等な相棒として。
私は真っ白な便箋の一行目へ、今度こそ迷わずペンを走らせた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,800,000リル
【座長業務日誌】
王立文書院より過去の建築資料を受領。同封にて胡桃パン代金30リルの返済を確認。暗号解読の協力を仰ぐため、クラウス殿下への実名の手紙を書き始める。




