第26話 パンか舞台かではなく
「……これが、貴女の考える新しい支援制度案ですか」
財務卿アルベルトの執務室は、書類の山とインクの匂いに満ちていた。
彼は三日かけて劇団員や商人の意見を集め、八時までの作業でまとめた羊皮紙の束を冷ややかな目でなぞり、銀縁眼鏡を押し上げた。
「『観客満足度による段階的支援』『安全基準の公開と連動した設備の無償貸与』『地方配給権の買い上げ』……。なるほど、確かに赤字をただ埋めるだけの旧制度よりは合理的だ。しかし、根本的な前提が間違っていますよ、リゼット・フォンテーヌ座長」
「根本的な前提、ですか?」
「ええ」
アルベルト様は私が提出した書類を、机の端へ無造作に押しやった。
「芸術は腹の足しにはなりません。私は国家の金庫番です。限られた予算の中で、飢えた民にパンを配るか、役者に舞台を用意するかと問われれば、私は一秒の迷いもなくパンを選ぶ。……だからこそ、赤字を垂れ流し、一部の貴族だけが楽しむような劇団の補助金は、すべて切り捨てるべきだと考えているのです」
彼の言葉は冷徹だが、そこには国家を預かる者としての確かな責任感があった。
だからこそ、「格式」の裏に資金の流れを隠す疑いにも、アルベルト様は厳しいのだろう。
だが、私は一歩踏み込み、押しやられた書類を再び彼の中央へ戻した。
「アルベルト様。パンか舞台か、その二択が間違っているのです」
「……何?」
「パンが必要な人にこそ、安い席は必要なのです」
私は前世の記憶を引っ張り出し、数字と論理を組み立てた。
「今日の仕事で疲れ果て、明日を生きる気力も湧かない人間が、たった数時間だけ別の世界で笑い、涙を流し、明日もまた頑張ろうと思える。それが興行の、娯楽の持つ真の力です。……一部の裕福な貴族だけではなく、その日のパンを買う小銭を握りしめた庶民にこそ、その力は必要なんです」
私は手元の資料のページをめくった。
「だからこそ、この制度案の核は『廉価席の収益モデル』です。王宮からの支援を、劇団の赤字補填に直接使うのではなく、庶民が買える『安い席』を一定数設けた劇団に対して、その差額を成果報酬として支払う形にしてください」
アルベルト様は目をわずかに見張り、私の顔と書類を交互に見た。
「座席の価格に差をつけ、その差額を国が補助する……。そうすれば、劇団は空席を減らすために必死で良質な舞台を作り、庶民も手軽に観劇できるようになる、と?」
「その通りです。ただし、人気票だけで全支援を決めれば、実験的な作品や小さな客席は消えます。基礎枠は安全、賃金、収支公開を条件にする。廉価席の差額分だけは、実際に使われた席数と観客調査へ連動させる。二つの枠を分けます」
「拍手を万能の物差しにはしない、と?」
「はい。でも、誰も座っていない廉価席へ補助を出し続けることもしません。支援の理由と結果を、どちらも公開します」
アルベルト様は長く、深い沈黙に落ちた。
彼の視線は書類の文字を追いながら、どこか遠く、私の知らない過去を見つめているようだった。
「……パンが必要な人にこそ、安い席が必要。……ですか」
彼はぽつりと呟き、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「以前にも……同じようなことを言った人間がいましたよ。芸術は貴族のものではない、すべての人の心に火を灯すものだと」
「アルベルト様?」
「……私の、亡き妻です」
彼が絞り出した言葉に、私の指が止まった。
冷徹な現実主義者だと思っていた彼の顔に、初めて、人間らしい苦悩と後悔の影が差していた。
「……エレノアという名の、不器用な劇作家でした。彼女は……文化評議会の腐敗を許せず、自分の作品で何かを変えようと、一人で……」
アルベルト様はそこまで言いかけて、ハッとしたように口を噤んだ。そして、再び眼鏡をかけ、いつもの冷ややかな顔を取り繕った。
「……失礼。余計なことを言いました。この案は持ち帰り、検討します。本日はお引き取りを」
これ以上の対話を拒むように背を向けた彼に、私は深く一礼し、執務室を後にした。
(エレノアという劇作家……)
その名前を何度も反芻しながら、私は劇場へと急いだ。
フォンテーヌ座に戻ると、事務所ではセバスチャンが古い木箱を前にして考え込んでいた。
「セバスチャン、その箱は?」
「座長、おかえりなさいませ。実は……先日、カイ様が公開された契約記録の中で、彼が『クラウス・フォン・アストリア殿下』であると正式に名乗られたのを見て、思い出したことがありまして」
セバスチャンは木箱の蓋を開け、古びた、だが丁寧に保管されていた分厚い台本を取り出した。
「これは?」
「先代……貴女のお父上が、かつて一度だけ上演しようとして、直前で文化評議会から『封印』を命じられた戯曲です。タイトルは『星の継承者』」
私はその台本を受け取った。表紙には、見覚えのない作者名が記されている。
「セレスティア……?」
「はい。この戯曲を書いたのは、クラウス殿下の亡き御母堂、セレスティア妃殿下です」
セバスチャンの衝撃的な言葉に、私は目を見開いた。
「クラウス様の、お母様……? 王族が、なぜこのような戯曲を?」
「妃殿下は元々、平民出身の旅芸人であり、劇作家でもありました。この『星の継承者』は、芸術を貴族の所有物にしないという、アストリア王国の『建国文化憲章』を物語化したものです。……しかし、それが文化評議会の逆鱗に触れ、上演は永久に封印され、妃殿下ご自身も失意のうちに……」
セバスチャンはそこまで言って、辛そうに口を噤んだ。
私は手に持った台本の重みを、ずしりと感じていた。
クラウスが、なぜ身分を隠してまでこの古びた劇場に通い詰め、私たちの独立性を守ろうとしたのか。彼が文化評議会をあれほど警戒し、同時に演劇というものを深く愛していた理由が、すべて繋がったのだ。
(彼は、お母様の残したものを……支配に潰されない本当の舞台を、探していたんだ)
私は台本をめくり、その文字を追おうとした。
だが、その瞬間。
台本の中間に挟まれていた数ページの紙が、ハラリと床に落ちた。
「……ん? 何これ」
拾い上げたその紙は、戯曲の本文ではなく、舞台の立ち位置や照明の指示を書き込む『舞台指示書(香盤表)』のようだった。だが、そこに書かれている文字は、明らかに戯曲の作者のものではなかった。
「セバスチャン。この乱筆なメモ書き、誰の字かわかりますか?」
私が尋ねると、セバスチャンは目を細めてそのメモ書きを覗き込んだ。
「あ……これは。先代が、この戯曲の復元を依頼した別の劇作家の字ですな。確か……そう、エレノアという女性でした」
「えっ……エレノア!?」
私は弾かれたように声を上げた。
先ほど、アルベルト様の執務室で聞いたばかりの名前だ。文化評議会の腐敗を許さず、一人で戦おうとした劇作家、エレノア・クライン。
私は震える手で、そのメモ書きに目を凝らした。
そこには、舞台の立ち位置でも照明の指示でもない、奇妙な数字の羅列が、暗号のようにびっしりと書き込まれていた。
「……これは、舞台の指示じゃない。何か、別のものを指し示している……?」
マルセル公爵の不正を追い、干されたという彼女が、なぜ封印された王妃の戯曲の余白に、こんな数字を残したのか。
「……これを読み解くには、王立文書院の過去の記録と照らし合わせる必要があります」
私は唇を噛み締めた。
この暗号を解読し、評議会の不正を暴く証拠を見つけ出すためには、王立文書院の膨大な資料と、それを熟知している人間の知識が不可欠だ。
つまり、カイ――クラウスの助けが、どうしても必要なのだ。
だが、私は彼からの手紙を突き返し、彼を拒絶してしまった。
私から助けを求めれば、彼は必ず応じてくれるだろう。けれど、それは彼を再び「王族としての責任」と「私への配慮」の板挟みにさせてしまうのではないか。
私は机の上に置かれた白紙の便箋を見つめ、額を指で押さえた。
許せない気持ちは、まだある。情報を隠されていたことは、今でも腹立たしい。
けれど、もう立ち止まっているわけにはいかない。
「……パンか舞台かではなく、両方を」
私はアルベルト様に言い切った自分の言葉を反芻し、羽ペンを握りしめた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,800,000リル
【座長業務日誌】
アルベルト財務卿へ新制度案を提出。封印戯曲『星の継承者』と、謎の暗号メモを発見。解読のため、クラウス殿下への連絡を検討。




