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第25話 競争相手にも、安全な舞台を

「座長! 《黄金の仮面》の大劇場で、舞台装置が崩落する事故が起きたそうです!」


朝の立ち稽古が始まる直前、エリックが息を切らして事務所へ飛び込んできた。

その知らせに、その場にいた劇団員たちの顔色が一斉に変わった。《黄金の仮面》といえば、現在私たちと同じ『湖の乙女』を上演している王都最大の商業劇団であり、次期新月の本審査に向けた最大のライバルだ。

「怪我人は!? お客様や役者は無事なの?」

私が机から立ち上がって尋ねると、エリックは肩で息をしながら頷いた。

「主演俳優が間一髪で避けたから、幸い擦り傷程度で済んだらしい。でも、派手な幻影魔法を投影するための巨大な昇降装置が真っ二つに折れたって。今日の公演は中止、明日以降もどうなるかわからないって噂だ」


「……原因は、おそらく歯車の強度不足と、過剰な魔法出力による負荷の計算ミスでしょうね」

舞台装置技師のトーマが、腕を組んで渋い顔をした。

「うちで使っているような、予算を抑えつつも重心を分散させる安全設計の基準を満たしていなかったんだ。派手な演出にばかり気を取られて、足元の土台がお留守になってたのさ」


トーマの言葉を聞き、舞台監督のセバスチャンが眼鏡の奥の目を光らせた。

「座長。これは我々にとって、またとない好機です」

セバスチャンは声を潜め、早口で言った。

「あちらの公演が止まれば、観客はこちらの劇場へ流れてきます。さらに、彼らの舞台の安全性が疑われれば、本審査における観客満足度の評価で、我がフォンテーヌ座が圧倒的に有利になります。ここは静観し、彼らが自滅するのを待つべきです」


セバスチャンの言うことは、劇団の経営という観点から見れば極めて冷徹で正しい。

だが、私は即座に首を横に振った。

「いいえ、静観はしません。トーマ、今すぐうちの舞台の安全基準と、事故防止のための構造設計図を書き起こしてください」

「座長!? 正気ですか!」

セバスチャンが驚愕の声を上げる。

「私たちの安全設計は、厳しい予算の中でトーマが苦労して生み出した企業秘密とも言える技術です! それを競争相手に渡せば、彼らはすぐに装置を直して公演を再開し、私たちの優位性は失われてしまいます!」


「わかっています。ですが、役者の命やお客様の安全を、競争のための道具にしてはいけません」

私ははっきりと言い切った。

前世で、私は知っている。安全管理を疎かにし、見栄えだけを重視したステージのせいで、足場が崩れ、将来あるアイドルが大怪我を負って夢を絶たれた悲惨な事故を。利益のために安全を秘匿し、他人の危険を見過ごすような興行は、いずれ必ず根幹から腐り落ちる。

「トーマ。その設計図と荷重計算、使用できる材料の条件を《声の広場》の公式枠で公開してください。図面だけを真似しないよう、劇場ごとに有資格者の再計算が必要だとも明記します」


私の決断に、事務所は一瞬静まり返った。

競争上の優位を捨てるという代償は小さくない。だが、トーマは短く息を吐くと、職人としての誇り高い顔でニヤリと笑った。

「……了解した。俺も、他所の劇団だろうが、役者が怪我をして舞台が血に染まるのなんざ見たくねえからな。すぐにとりかかる」

彼はすぐさま羊皮紙に向かい、図面を引き始めた。


設計図を《声の広場》で公開した翌日。

フォンテーヌ座の昼公演の幕間、ロビーで観客たちが談笑しているところに、場違いなほど派手なワインレッドの外套を着た男が現れた。

《黄金の仮面》の演出家、レナード・ヴォスだ。

「おい、あれって……」「どうして《黄金の仮面》の演出家がここに?」

突然の訪問者に、ロビーにいた観客たちがざわめき、エリックやミーシャたち劇団員も警戒して身構える。

私もすぐに歩み寄り、彼と対峙した。

「レナード様。本日はどのようなご用件でしょうか」


レナードは鋭い眼光で私を見下ろし、それから周囲を取り囲む観客と全劇団員を見回した。

そして、誰もが予想しなかった行動に出た。

彼はバサリと外套を翻し、私の目の前で、深く、深く頭を下げたのだ。


「……あの安全設計図、ありがたく使わせてもらった」

王都最大の商業劇団を率いる誇り高き男が、格下の劇団の座長に対して公然と敬意を示している。

「俺は、魔法の派手さや視覚的な驚きばかりを追い求め、一番肝心な『役者の命を預かる土台』を軽視していた。君の劇団が公開してくれた図面のおかげで、致命的な二次事故を防ぐことができた。……俺たちの負けだ」

レナードは頭を上げ、真っ直ぐな目で私を見た。

「次から、舞台の安全基準については、俺たち《黄金の仮面》はフォンテーヌ座と同じ側に立つ。君たちが提示した共同基準へ、正式に参加させてもらおう」


ロビーが、どよめきと感嘆の声に包まれた。

競合関係にある最大手が、私たちを対等なパートナーとして認め、味方へ転じたのだ。

「ありがとうございます、レナード様。共に、観客が安心して楽しめる舞台を作りましょう」

私が微笑んで応えると、彼はふと声を潜め、私にだけ聞こえるように告げた。

「気をつけておけ、リゼット座長。今回のうちの事故は、単なる設計ミスだけじゃない」

「どういうことですか?」

「文化評議会だ。各劇団から徴収している『安全検査費』と、実際の検査費用が合わない」

レナードの言葉に、私はしばらく返事ができなかった。

「うちの崩落した装置には、評議会指定業者が納品した規格外の部品が混じっていた。なのに、検査官のチェックは通っている。支払先の先に公爵の関連法人があるという記録も見つけた。断定はできないが、調べる価値はある」


安全を金に変え、役者の命を危険に晒す。

文化の守護者を自称する男の裏の顔に、私はギリッと奥歯を噛み締めた。

「貴重な情報をありがとうございます。必ず、役に立てます」

レナードは短く頷き、「本審査で会おう」と言い残して去っていった。


その日の終演後。

観客が帰り、静かになった劇場に、もう一人の来訪者が現れた。

漆黒の執務服を着た財務卿、アルベルト・クラインだ。

「自らの競争優位性を手放してまで、業界全体の安全を選び、公開基準を作ったか」

アルベルトは銀縁眼鏡の奥で、私を値踏みするように見つめた。

「綺麗事だけでは腹は膨れない。だが、パンか舞台かではなく、その両方を成り立たせると言い切った貴女の言葉は、少しは本気のようですね」

「アルベルト様……」

「ならば、見せてもらいましょう。貴女が考える、新しい補助金制度の改革案を」

アルベルトは冷徹な眼差しのまま、私に命じた。

「赤字を補填するだけの不透明な制度ではなく、観客の評価や安全基準の遵守といった『成果』に連動する、透明な公開支援案です。……三日後に、私の執務室へ提出しなさい」


それは、国家の制度そのものを変えるための、途方もなく大きな課題だった。

だが、私がここで逃げれば、マルセル公爵の腐敗した制度は残り続ける。

「承知いたしました。必ず、ご納得いただける案をお持ちします」


夜の帳が下りた事務所で、私は一人、白紙の羊皮紙に向かっていた。

ふと、机の隅の何もない空間に視線を落とす。

(Kさん……いえ、クラウス様。もし貴方なら、この案をどう評価してくれますか?)

彼の正体が明らかになり、手紙が止まってから、その空白は私の心に冷たい影を落としている。

寂しい。その感情を認めることは、少しだけ怖い。

けれど、手紙が止まっても、私たちの幕は上がり続ける。私は目の前の舞台と制度案に、自分の名で責任を負う。

私は静かに息を吐き、ペンをインクに浸して、制度改革案の第一行を書き始めた。


【本日のフォンテーヌ座収支】

借金残高:6,800,000リル

【座長業務日誌】

安全設計図の無償公開を実施。《黄金の仮面》が共同安全基準へ参加を表明。アルベルト財務卿より補助金制度改革案の提出を命じられる。

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