第24話 手紙が止まっても、幕は上がる
「本日の公演も、満員御礼です!」
エリックの弾んだ声が舞台裏に響き、劇団員たちの間に歓声が沸き起こった。
連日、フォンテーヌ座の二百四十席は埋まっている。
魔写絵は新規受注を止めたまま、ノエルと役者が一日三枚ずつ検品して既存分を渡していた。小冊子と後援会も、派手ではないが黒字を重ねている。
その朝、私は三百二十万リルを債権者へ送金した。
通常公演の累積純利益:2,200,000リル
小冊子・納品済み魔写絵の純利益:650,000リル
後援会費・共同協賛金:350,000リル
返済額:3,200,000リル
役者への配分、遅配賃金、返金、運転資金はすでに差し引いてある。借金残高は、六百八十万リルになった。
「座長! 次回の魔写絵の追加発注書です!」
「衣装のほつれを直すための布地代、ここに置いておきます!」
次々と持ち込まれる報告と書類の山。私はその一つ一つを素早く確認し、指示を出し、帳簿に数字を書き込んでいく。
劇団は間違いなく軌道に乗っている。私が前世で目指し、今世で実現したかった「熱狂する客席」と「正当な対価」の循環が、確かにここにある。
だが、夜になり、喧騒が引いた誰もいない事務所で一人になると。
私の視線は無意識に、机の隅の何もない空間へと向けられていた。
(今日も……来ないわね)
商人ギルドの配達員が、あの上質な封筒を届けてくれなくなってから、数日が経過していた。
K――第二王子クラウス・フォン・アストリアからの手紙。
私が彼の正体を暴き、未読の手紙を突き返して以来、彼からの連絡は途絶えていた。
彼が私の選択を尊重し、不要な圧力をかけまいと距離を置いているのは頭では理解している。
それでも、私の表に出ない仕事を肯定し、舞台袖の孤独を分かち合ってくれたあの言葉がない日々は、想像以上に冷たく、味気ないものだった。
「……こんなところで、立ち止まっている暇はないわ」
私は自分を鼓舞するように呟き、目の前の書類の山に再び向き直った。寂しさや不安は、忙しさで塗り潰してしまえばいい。ひたすらに数字を追い、役者たちのための契約を見直し、次の公演の計画を立てる。
そうして作業に没頭している時だけは、身体の内側に空いた穴を忘れられたからだ。
翌日の昼下がり。
ロビーで開かれていた後援会のサロンの片隅で、私はヴィオラ・レイン伯爵令嬢に呼び止められた。
「リゼット。あなた、少し働きすぎではなくて?」
優雅に紅茶のカップを置いたヴィオラ様が、扇越しに私を鋭く観察している。
「いえ、そんなことはありません。劇団の立て直しには、まだまだやるべきことが山積みですから」
私が取り繕って微笑むと、彼女は呆れたように小さくため息をついた。
「嘘がお下手ですのね。あなたの目は、ずっと劇場の入り口ばかりを気にしていますわ。まるで、来るはずのない誰かを待っている迷子のように」
図星を突かれ、私の肩がびくりと跳ねた。
「……っ、そんなことは……」
「隠さなくてよろしいわ。あなた、いつも感情が昂ぶると、そうやって数字や作業に逃げ込む癖がありますものね」
ヴィオラ様は扇を閉じ、私の顔を正面から見据えた。
「寂しいなら、寂しいと認めなさいな」
その言葉は、鋭い刃のように私の強がりを切り裂いた。
「……寂しい、なんて」
「あなたは強くて、賢くて、私たちに素晴らしい居場所を作ってくれた。でも、自分の心にまで完璧な契約書を押し付ける必要はありませんわ。泣きたい時や、誰かに会いたい時くらい、自分の感情に素直になっても誰もあなたを責めませんのよ」
彼女の言葉は辛辣だが、その奥には不器用なほどの優しさが込められていた。
私が言葉に詰まり、視線を落としたその時。
「お取り込み中のところ、失礼する」
劇場の入り口から、冷え切った声が響いた。
仕立ての良い漆黒の執務服。銀縁眼鏡の奥で光る、感情の読めない瞳。
財務卿、アルベルト・クラインが、数人の文官を伴って立っていた。
サロンにいたご婦人たちが、その威圧感に静まり返る。
私は咄嗟に姿勢を正し、アルベルト様に向き直った。
「アルベルト様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「先日、貴女が文化評議会へ提出した反証資料と、クラウス殿下が公開された契約記録について、財務省としての確認が終わりました」
アルベルト様は書類の束を片手に、淡々と告げた。
「結論から言えば、殿下の資金提供は完全に透明なものであり、不正な介入は見られなかった。よって、評議会が下した『王立認定の一時停止』は、正式に解除されたとみなします」
その言葉に、ヴィオラ様をはじめとする後援会の人々から、小さく安堵の息が漏れた。
だが、アルベルト様の表情は一切崩れなかった。
「しかし、喜ぶのは早計です。次期新月の直後に行われる文化評議会の『本審査』は、マルセル公爵が統括します。曖昧な項目を一つでも残せば、認定を失う根拠にされかねません」
「本審査……」
「ええ。安全基準、賃金体制、観客満足度。曖昧な箇所を一つでも残せば、そこを理由にされるでしょう」
アルベルト様は私を鋭く見据えた。
「貴女は以前、私に『税金ではなく拍手で黒字にする』と大見得を切った。その言葉の真価が、本審査で問われることになります。せいぜい、足元をすくわれないよう気をつけることですね」
彼は冷徹に言い放ち、静かな足音を立てて劇場を去っていった。
公爵が統括する本審査が来る。
それは、クラウスからの手紙が止まったこの空白の期間に、私たちが自分たちだけの力で乗り越えなければならない、最大の試練だった。
* * *
同刻。王立文書院の副院長室。
クラウス・フォン・アストリアは、密偵から上がってきた最新の報告書を前に、深く眉間を寄せていた。
「マルセル公爵が、評議会の息のかかった貴族たちを動かし、不穏な噂を流布しているようです」
密偵の言葉に、クラウスの灰青色の瞳が冷たく細められる。
「……私が、身分を隠して若い女座長に入れあげ、国庫の金を横流ししている、といったところか」
「はい。殿下の公開された契約記録を『後付けの偽装』と呼ぶ声もあります。発信元は複数で、主導者までは追えません」
クラウスはギリッと奥歯を噛み締めた。
彼が自ら審査から退き、情報を公開したことで、一時的に認定停止は防げた。それでも、王子と女座長の私情という切り取り方は、事実より早く広がる。
彼女の努力の結晶である劇団が、自分の正体のせいで政争の具にされている。その事実が、クラウスの心を苛立たせていた。
(リゼット。……君は今、何を思っている)
彼女から突き返された未読の手紙が、机の引き出しの奥に眠っている。
彼女の怒りは正当だった。情報を隠し、安全な場所から見守るだけの傍観者は、一番必要な時に相手を守れない。
手紙を出すこともできず、劇場に足を運ぶ資格もないと思うこの空白の時間が、クラウスにとってどれほど耐え難いものか。
エリックや他の劇団員たちが、彼女のすぐ傍で共に戦っているというのに、自分だけが蚊帳の外に置かれている。その事実に対する醜い嫉妬と焦燥が、理性を焼き尽くそうとしていた。
「……殿下。本審査で不利な裁量を使われれば、フォンテーヌ座は不服申立ての間も興行できません。いかがなさいますか」
密偵の問いに、クラウスはゆっくりと顔を上げた。
「私は、これ以上傍観者でいるつもりはない」
彼の声には、かつてないほどの決意が込められていた。
「マルセル公爵の不正資金の証拠、そして《黄金の仮面》との癒着を示す記録。……法定手続きで保全し、公開できるものは同時に市民閲覧へ回す準備を進めろ」
「公開を……!? しかし、それでは殿下ご自身も政治的な非難の的になります!」
「構わない。私は彼女に『同じ側で守る』と誓わなければならないのだ」
クラウスは窓の外、遠く離れた劇場街を見つめた。
彼女が舞台を諦めない限り、幕は上がる。
ならば自分は、二度と彼女から逃げず、幕を奪う違法な手だけを止める。
次に情報を出す時は、王立文書院副院長として自分の名を署名し、公開の責任を負う。
報告書の余白にエリックの名を見つけた時、羽ペンの先が折れた。
クラウスは新しいペンを取ったが、一文字も書けない。夜更け、とうとう灰色の外套を羽織り、フォンテーヌ座の前まで歩いた。
二階の事務所には、まだ灯りがある。
扉へ伸ばした手を、彼は寸前で下ろした。今ここで会いたいと言うのは、謝罪ではなく、自分の寂しさを埋めるためだ。
クラウスは差し入れの紙袋を向かいのパン屋へ預け、名を告げずに帰った。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:6,800,000リル
【座長業務日誌】
アルベルト財務卿より一時認定継続の確認あり。文化評議会の本審査へ向け、観客満足度のさらなる向上を急ぐ。




