第22話 匿名後援者は第二王子でした
昨夜の問いに、カイは何かを言いかけ、口を開き、そして閉じた。優秀な頭脳が必死に言い訳を探しているのはわかったが、とうとう答えは出てこなかった。
「……すまない、今日はもう遅い。失礼する!」
彼はバッと背を向け、脱兎のごとく夜の闇へと逃げ去ってしまった。あまりにも見事な逃げ足に、私は呆れを通り越して深いため息をついた。
翌日。
私は、王立認定の再審査に向けた事前資料を提出するため、王立文書院を訪れていた。
昨夜の十二秒の演出と、二百十二枚の再観劇希望票。収支と観客満足度の資料に加え、ミーシャの診療記録も提出するつもりだった。
提出窓口である副院長室を探して奥へ進むと、少し開け放たれた重厚な扉の隙間から、見覚えのある灰色の外套が見えた。
「クラウス殿下。こちらの法案の決裁をお願いいたします」
白髪の年老いた文官が、執務机に座る彼に向かって恭しく頭を下げていた。
「ああ。確認しておこう」
返事をしたその声は、いつも私と話す時の少し焦ったような声ではない。低く、落ち着き払った、絶対的な威厳を持つ声だった。
文官が「失礼いたします」と部屋を退出していく。入れ替わるように、私は静かに扉を押し開き、執務室へと足を踏み入れた。
「……資料の追加なら、そこに置いておいてくれ」
書類から目を離さずに言う彼に、私は静かに声をかけた。
「王立認定の事前資料をお持ちしました。王立文書院副院長、第二王子のクラウス殿下」
その声に、彼が弾かれたように顔を上げた。
「リゼット……!」
椅子から立ち上がりかけた彼の顔には、隠しきれない動揺が走っていた。私は逃げ道を塞ぐようにドアの前に立ち、持参した数通の手紙を机の上に並べた。
「カイ・リヒターという名前は、王立文書院の職員名簿にはありませんでした。そして、この流麗な筆跡。契約や法律に関する正確すぎる語彙。旧条例を瞬時に引き出せる知識。……極めつけは、私が手紙の中にだけ書いた弱音を、貴方が一言一句違えずに口にしたこと」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「匿名後援者K。そして、演劇好きの研究員カイ。……貴方は最初から、クラウス・フォン・アストリア殿下だったのですね」
言い逃れのできない証拠の数々に、クラウスは観念したように長く息を吐き、静かに首を縦に振った。
「……騙していて、すまなかった。だが、弁解させてほしい」
クラウスは私の前に進み出ようとしたが、私が一歩引いたのを見て足を止めた。
「私は、君の舞台を王家の威光で飾りたかったわけじゃない。王族が支援していると知れれば、君の劇団は『王宮の庇護下にある』という色眼鏡で見られ、君の努力が正当に評価されなくなる。だから、同じ目線を持つ一人の観客として、君たちを守りたかったんだ」
彼の言葉には、嘘はなかった。私の自立を尊重し、王族の力で成果を横取りしないための、彼なりの配慮だったのだろう。
けれど、私は首を横に振った。
「貴方は、何もわかっていません。私が怒っているのは、嘘をつかれたことではないのです」
私は彼を見据え、冷徹な声で言った。
「身分が私の選択を縛ると恐れたのでしょう。だから隠した。けれど、その危険を引き受けるかどうかまで、貴方が代わりに決めたのです」
クラウスの呼吸が止まる。
「王族が密かに劇団を支援している。その事実が明るみに出た時、劇団がどれほど政治的な危険を負うか。貴方は『庇護しない』という選択肢を私にくれたつもりでしょうが、私にとって一番重要な『王族が関わっているという判断材料』を隠したのです」
前世で、出資者の素性を知らされずに問題へ巻き込まれ、非難を浴びて消えていった裏方や演者を私は知っている。危険の所在を知らされないまま戦わされることほど、現場にとって恐ろしいことはないのだ。
「知らされていれば、契約を断ることも、公表することもできました。選択肢を守るために、選ぶ材料を奪わないでください」
私は鞄から、今朝届いたばかりの一通の手紙を取り出した。
封を切っていない、Kからの最新の手紙だ。
「これは、お返しします」
「リゼット……っ、待ってくれ、その手紙は……!」
クラウスが悲痛な声を上げて手を伸ばすが、私はその手を躱し、未読の手紙を彼の執務机に置いた。
「事前資料は提出いたしました。失礼します、クラウス殿下」
私は一切振り返らず、執務室を後にした。背後から名前を呼ばれたような気がしたが、私は足を止めることなく文書院を後にした。
みぞおちのあたりが、ずきずきと痛む。
怒っているのは本当だ。危険を隠されていたことは、経営者として看過できない。
けれど、それ以上に痛かったのは、私を誰よりも理解し、弱音を受け止めてくれた「K」という居場所が、王族という強大な身分の壁の向こう側へと消えてしまったことだった。
『君がいない成功を、成功と呼ばない』
彼が私にかけてくれたあの不器用な言葉も、すべては王子の気まぐれだったのだろうか。
私は拳を握り、その考えを強引に振り払った。
(恋愛にうつつを抜かしている場合じゃない。私には、守るべき劇団があるんだから)
しかし、私が劇場に戻ると、そこにはさらなる絶望が待ち受けていた。
「座長……!」
事務所に飛び込んだ私を迎えたのは、顔面蒼白になったセバスチャンと、沈痛な面持ちの劇団員たちだった。
「どうしたの? 何かあったんですか」
「たった今、文化評議会から正式な通達が届きました。……マルセル公爵の署名入りです」
セバスチャンが震える手で差し出した羊皮紙。そこに記されていた文面に、私は息を止めた。
『フォンテーヌ座において、王族による不適切な私的介入および資金援助の疑いが発覚した。
よって、公平性の観点から、当劇団の王立認定を一時停止する。九十日後の再審査を待たず、明日より王都中心区での興行を全面禁止とする』
「王族の、私的介入……」
私はその言葉を呆然と呟いた。
マルセル公爵は、王族の身分を伏せた資金提供を「不適切な介入の疑い」として、即座に興行を止める根拠に使った。慎重な審査のためか、邪魔な劇団を排するためか。どちらであれ、判断材料を知らせてもらえなかった代償は、私たちの舞台に落ちてきた。
「公演が禁止されたら、私たちはどうなるの……?」
ミーシャが震える声で呟く。
エリックも拳を握りしめ、言葉を失っている。
借金の支払猶予まで、あとわずか。ここで興行を止められれば、私たちは完全に終わりだ。
クラウスが正体を隠したことで生じた代償が、最悪の形で私たちの前に立ちはだかっていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
カイ氏の正体が第二王子クラウス殿下と判明。支援の隠蔽を理由に抗議。文化評議会より王立認定の停止予告を受領。




