第20話 一軒を潰すなら、百軒と組みます
「親方! 頼む、少しでいいから粉を融通してくれ! このままじゃ、明日の朝に焼くパンが一つも……!」
「すまねえ、うちも問屋から止められちまってるんだ。本当にすまねえ……!」
劇場街の裏路地にある、小さなパン屋の工房。
いつもなら香ばしい焼き立ての匂いが漂っているはずのその場所で、私は店主の親方と、見習いの少年が肩を震わせているのを無言で見つめていた。
文化評議会の商務書記から出た通達で、フォンテーヌ座に協賛する数軒のパン屋への掛け売りが止まった。現金払いへ切り替えられ、見習いの賃金まで一日遅れている。
「……私のせいです。私が、皆様を巻き込んでしまったから」
私が絞り出すように言うと、親方は真っ赤な目で首を横に振った。
「違う、座長さんのせいじゃねえよ。俺たちは、あの『恋するパン屋』の舞台を心から応援したくて協賛したんだ。あの舞台を見たお客さんが、笑顔でうちのパンを買ってくれるのが本当に嬉しかったんだ……。なのに、あんな理不尽な嫌がらせで……っ」
親方の言葉が、前世の私の記憶を鋭く抉る。
理不尽な圧力や風評で、懸命に頑張っていた仲間たちが潰されていく光景。私はあの時も、ただ見ていることしかできなかった。
(……いいえ。あの時とは違う。今の私には、対抗する手段がある)
「親方。明日の朝、必ず小麦を確保します。それまで、少しだけ待っていてください」
私は工房を飛び出し、そのまま王立文書院へと走った。
圧力は文化評議会の商務書記から流れ、承認欄にはジュリアン補佐官室の名があった。本人の指示かまではわからない。それでも、評議会と商業ギルドの回路をひっくり返すには、一軒のパン屋だけでは駄目だ。
巨大な力に対抗するには、それ以上の『数』の連帯が必要になる。
王立文書院の閲覧室に飛び込むと、そこにはいつものように、分厚い法典の山に埋もれるようにして座っているカイの姿があった。
「カイ様!」
私が声をかけると、カイは驚いたように顔を上げた。
「リゼット……? どうした、そんなに血相を変えて。何かあったのか?」
私は息を整え、彼を真っ直ぐに見据えた。
「昨日、カイ様にお伝えしたパン屋への圧力の件です。今、彼らの工房へ行ってきました。明日のパンが焼けない状態です。……カイ様、貴方は王立文書院の研究員として、様々な法令や過去の取引記録を調べてくださっていましたね」
私は彼の目から、一切視線を逸らさずに問い詰めた。
「貴方の知識と情報網なら、商業ギルドの『どこから』圧力がかかったのか、すでに特定できているのではありませんか?」
カイの肩が、びくりと跳ねた。
彼は明らかに動揺したように視線を泳がせ、数秒の沈黙の後、重い口を開いた。
「……ああ。通達を出した商務書記と製粉ギルド幹部の面会記録は押さえた。承認欄には、ジュリアン補佐官室の名がある。ただし本人の署名か、配下が名義を使ったのかまでは確認できていない」
「なぜ、すぐに教えてくださらなかったのですか!?」
私の怒気に満ちた声が、静かな閲覧室に響いた。
「今、この瞬間にも、親方たちは店を潰される恐怖に怯えているんです! 見習いの子のお給料だって払えない状態なんですよ!?」
カイは苦しげに顔を歪め、机の上に視線を落とした。
「……すまない。私に、迷いがあった」
彼はゆっくりと顔を上げ、自嘲するような、ひどく脆い表情で私を見た。
「私が持っている情報や力を使えば、この問題はすぐに解決できるかもしれない。だが、私が不用意に介入すれば、君たちが自分たちの力で勝ち取ろうとしている『独立性』に傷をつけるのではないかと恐れた。……私が手を出すことで、君の判断を縛ってしまうのが、怖かったんだ」
「……介入しないことと、必要な事実を隠すことは違います」
「迷っている間に、見習いの賃金が遅れました。善意の不作為でも、損害は消えません」
私の言葉に、カイは返す言葉を失い、そして深く、深く頭を下げた。
「……君の言う通りだ。私は、自分の身分の……いや、自分の影響力を恐れるあまり、目の前の被害から目を背けていた。本当に、すまなかった」
彼は一切の言い訳をせず、私の言葉を真っ向から受け止めて謝罪した。
言い訳をしないことだけは受け取った。けれど、遅れた賃金は謝罪では戻らない。
「謝罪は十分です。その圧力の証拠、今すぐ私に提供してください」
「ああ、もちろん全部渡そう。……それで、君はどうやって彼らに対抗するつもりなんだ?」
「一軒のパン屋を狙い撃ちにするなら、百軒と組みます」
私はカイから受け取った証拠書類を胸に抱き、すぐに劇場へ戻って行動を開始した。
セバスチャンたち裏方を総動員し、劇場街にある小規模な商店――パン屋、仕立屋、花屋、食堂、小間物屋など、ありとあらゆる店舗へ声をかけた。
「フォンテーヌ座との『共同協賛』のお願いです。一店舗あたりの協賛金は、銀貨一枚というごく少額で構いません。その代わり、当劇団の案内札の裏に、皆様のお店の名前を百軒連名で記載させていただきます」
私の提案に、商人たちは最初は戸惑っていた。
「銀貨一枚の協賛金で、あの大人気の舞台の宣伝に名を連ねられるのかい? そりゃあありがたいが……でも、パン屋の親方がギルドから目をつけられてるって噂だぞ。俺たちまで巻き込まれるんじゃ……」
「安全を保証するとは言えません」
ざわめきが止まった。
「だから、百軒の名は同時に公表し、協賛金の一部を共同の法務費へ積みます。参加を取り消す期限も今夜まで設ける。明日、私だけが先頭に立って抗議します。それでも危険は残ります」
私は面会記録の写しを机へ置いた。
「一軒ずつ隠れて狙われるより、同じ契約でつながる方が抗議の記録を残せます。参加するかどうかは、危険も含めて決めてください」
最初にペンを取ったのは、劇場向かいの花屋だった。
「……わかった。そういうことなら、乗ってやろうじゃないか」
「俺たちの劇場街を、一部の貴族の好き勝手にはさせねえよ!」
商人たちは次々と頷き、共同協賛の契約書にサインをしてくれた。
翌日。私は集まった百軒の署名と、カイから受け取った不当圧力の証拠記録を持ち、王都の商業ギルド本部へと乗り込んだ。
応対に出たギルドの役員たちは、最初は私を小娘と侮っていたが、百軒もの店舗が連帯している事実と、公開記録として提出された動かぬ証拠を前に、みるみるうちに顔色を変えた。
「これは……製粉ギルドの一部幹部と商務書記の取引を、正式に調べる必要があります。調査中は従前の掛け売り条件へ戻すよう、暫定勧告を出しましょう」
「よろしくお願いします。結果は魔法掲示板の《声の広場》でも共有させていただきますので」
私は受理番号を書き留めた。役員の頭が下がったかどうかより、その番号が必要だった。
その数時間後。
パン屋の工房に、再び小麦の袋が運び込まれるのを見届けた後。
「座長さん! 本当に、本当にありがとう!」
親方と見習いの少年が、涙ぐみながら何度も私に頭を下げてきた。
「いいえ、皆様の勇気ある決断のおかげです。……さあ、明日は美味しいパンをたくさん焼いてくださいね」
私が工房を出ると、路地の入り口にカイが立っていた。
彼は私に近づくと、深く一礼した。
「暫定勧告が出てよかった。……私の不作為で被害を広げたことを、改めて謝罪する」
「もう謝らないでください。カイ様が証拠を出してくださらなければ、私は戦うことすらできなかったのですから」
私が微笑みかけると、カイは少しだけ救われたような顔をして、そっと目を伏せた。
「……リゼ!」
不意に、元気な声が路地に響いた。見ると、主演のエリックが劇場の若手たちと一緒に歩いてくるところだった。彼らはパン屋の騒動解決を祝って、これから食事に行くところらしい。
「おっ、カイさんも一緒か。リゼ、今から俺たち祝勝会で飯食いに行くんだけど、一緒に行かないか?」
エリックが無邪気に私を誘った、その瞬間。
「彼女は行かない」
私の隣で、カイがエリックを鋭い目で射抜いた。
「え? なんであんたが答えるんだよ」
「彼女は今日の交渉で疲労している。休養が必要だ。それに、若い男ばかりの食事の席に、未婚の座長を同席させるなど、風紀上よろしくない」
カイの口調は硬く、その背中からは明らかに不機嫌なオーラが漂っている。
エリックはポカンとした後、「なんだよ、過保護な後援者だなあ」と苦笑しながら去っていった。
「あの、カイ様?」
私が不思議そうに彼を見上げると、カイはハッとして、またしても耳の先まで真っ赤に染めた。
「あ、いや! その……違うんだ! 私はただ、座長の体調管理という観点から、ごく一般的なアドバイスを……!」
「わかりました。では、カイ様。私、お腹が空いてしまったのですが、補填の手続きを手伝ってくださったお礼に、少しだけお食事にお付き合いいただけませんか?」
私が首を傾げて尋ねると、カイは言葉を失い、二度頷いた。
(本当に、わかりやすい人)
私は心の中で小さく笑いながら、彼と共に夕暮れの劇場街を歩き出した。
《黄金の仮面》との同日公演の幕が上がるまで、あと数日。
私たちの周りには、もう孤独な客席の幻影はなかった。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
百軒の共同協賛契約を締結。商業ギルドへの抗議により、パン屋への不当圧力を解除。カイ氏の証拠提供に感謝。




