第19話 弱音を読める人
公開稽古を終えたその夜。私の机に、匿名後援者Kから見慣れた封筒が届いた。
『炎上に対する君の対応を見た。
君は役者を守るためなら、勝ち方まで変えられるのだな。
失敗と契約を開示して尊厳を示した彼らの姿は、どんな美しい喜劇よりも胸を打った。
だが、そのすべてを矢面に立って受け止めた君の肩の重さを思うと、少し胸が痛む』
先日、文書院でカイが見せた不器用な嫉妬の顔と、『才能を見つけた責任の重さに、足がすくみそうになる時もあるだろう』という言葉が浮かんだ。
(カイ様……あなたが、Kさんなんですか)
確信に近い予感を抱えたまま、私は新しい便箋を引き寄せた。誰にも言えない弱音を、たった一人の匿名後援者Kへ宛てて書く。
羽ペンが、紙の上でわずかに躊躇った。
これまで私は、彼に対して「座長」としての強気な報告ばかりを書いてきた。だが、私の行動の裏にある恐怖を、私の地道な仕事を誰よりも正確に見抜く彼になら、打ち明けられる気がした。
前世の記憶。もちろん「前世」や「地下アイドル」という言葉は使わない。ただ、私の魂の奥底にこびりついたトラウマを、現地の言葉に翻訳して紙に落としていく。
『K様。お手紙、何度も読み返しました。
私はかつて、誰にも名を呼ばれない人間でした。客席の半分も埋まらない解散公演。拍手を待つあの沈黙の中で、他の仲間の名前は呼ばれても、私の名だけは最後まで呼ばれませんでした。
私は、推される側にはなれない。誰かに求められる人間ではない。そう悟った私は裏方へ逃げ、誰かを成功させる時だけ自分の価値があるのだと思い込むようになりました』
筆を進めながら、前世で過労の末に倒れたあの舞台袖の冷たい床の感触が蘇り、呼吸が浅くなる。
『裏方に回った私は、必死に仲間を売り出しました。けれど、成功させることに執着するあまり、仲間の体調悪化を見抜けなかった。
強い照明を正面から浴びせすぎれば、舞台に立つ人間は足元の奈落が見えなくなる。私は自分の手で、仲間を限界まで追い詰めてしまったのです。
だから、怖いのです。フォンテーヌ座が成功すればするほど、また皆を限界まで働かせすぎてしまうのではないかと。才能を見つけた責任の重さに、時々、足がすくみそうになります』
最後まで書き上げ、私はすぐに封をした。
これほど生々しい弱音を他人に晒したのは、前世を含めても初めてのことだった。
翌朝。劇場のロビーは、連日の満席と炎上を乗り越えた熱気で活気に満ちていた。
「リゼ! 今日の立ち稽古、俺の動きはどうだった?」
エリックが汗を拭いながら駆け寄ってくる。ミーシャは休演日を守って別室で喉を休ませており、今日は代役を立てての稽古だ。
「良かったです。ただ、二幕の登場のタイミング、昨日より半歩分早くなっています。修正してください」
「うげっ、バレてたか。わかった、直しておく!」
エリックが舞台へ戻っていくのを見届けた時。
「……おはよう、リゼット」
入り口から、静かな声がした。灰色の外套を着たカイが、どこか落ち着かない様子で立っていた。
「おはようございます、カイ様。今日もご見学ですか?」
「ああ。いや、その……君の顔色が、少し気になってね。昨日も無理をしただろう」
カイの灰青色の瞳が、私を気遣うように見つめてくる。その眼差しは、ただの「演劇好きの研究員」が向けるものにしては、あまりにも優しすぎた。痛みを分かち合うような、深い理解を伴う視線。
それはまるで、昨夜私が書き綴ったあの『弱音』を、すでに彼が読んでいるかのようだった。
(……試してみよう)
私は、数日前から拭えずにいた一つの仮説を確かめる決意をした。
彼が、匿名後援者Kと同一人物なのかどうか。
「ご心配をおかけしてすみません。でも、昨日の公開稽古で、ミーシャやノエルの負担を可視化できたのは良い結果でした」
私はわざとらしくため息をつき、彼から視線を逸らして宙を見つめた。
「ただ、これ以上彼らを急き立てないように、私が気をつけなければいけません。……強い照明を正面から浴びせすぎれば」
私が言葉を区切った、その瞬間。
「……舞台に立つ人間は、足元の奈落が見えなくなるからな」
カイが、ごく自然に、流れるような相槌としてその言葉を続けた。
私が昨夜、Kへの手紙の中『だけ』で使った、その比喩表現を。一言一句、全く同じ言葉で。
空気が、凍りついた。
私は弾かれたように顔を上げ、カイの目を真っ直ぐに射抜いた。
「……どうして、カイ様がその言葉を知っているのですか?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
カイの肩が、びくりと大きく跳ねた。
彼はようやく自分が口走った言葉の重大さに気づいたらしい。目を見開き、サッと血の気を引かせたかと思うと、次の瞬間には耳の先まで真っ赤に染め上げた。
「あっ、い、いや! ち、違う! これは、その……そうだ! 王立文書院にある、古い舞台照明の技術書に書いてあった一節だ! そう、一般教養として思い出しただけで……!」
「私が昨夜書いたばかりの手紙の比喩が、古い技術書に載っているんですか?」
「手紙!? いや、私は手紙など読んでいないぞ! Kという匿名の後援者が君と文通していることなど、全く、一切、これっぽっちも知らない!」
墓穴を掘るとはまさにこのことだ。私はまだ「K」という名前を一言も出していないのに、彼は自らその名前を口にしてしまったのだから。
慌てふためく姿を見て、少なくとも一つは確信した。
王立文書院の研究員カイは、私の仕事を見つけ、孤独な弱音を受け止めてくれた「K」だ。
では、なぜ名を隠すのか。手紙が届く速さも、古い条例へ自由に触れられる立場も、ただの研究員という説明では足りない。
(ああ、なんだ……)
嘘をつくのが絶望的に下手で、私の言葉一つでここまで狼狽える不器用な人が。
私が前世からずっと抱えてきた「誰にも名を呼ばれない」という呪いを、あんなにも優しい言葉で解きほぐしてくれたのだ。
怒りより先に、指先がむず痒くなった。
「カイ様」
「な、なんだ。私は絶対に違うからな」
「……いいえ。カイ様が、私の言葉を真剣に聞いてくださっていることがわかって、とても嬉しかったです」
私が微笑むと、カイは虚を突かれた顔で固まった。
問い詰めるのはやめた。彼が自分で名乗る機会を、一度だけ待つ。その代わり、次に嘘を重ねた時は曖昧に笑って済ませない。
だが、その穏やかな時間は、劇場の外から飛び込んできた悲鳴によって引き裂かれた。
「座長! 大変です!」
息を切らして駆け込んできたのは、先日、私たちが相互宣伝の契約を結んだパン屋組合の見習い少年だった。
「どうしたの? 何かトラブル?」
「組合の親方たちが、大変なことになってて……! 今日、王都の製粉ギルドから、突然『小麦の掛け売りを全面停止する』って通達が来たんです!」
「小麦の掛け売り停止……?」
私は眉をひそめた。パン屋にとって小麦は命だ。それを現金での即時払いでしか売らないとなれば、資金繰りの厳しい小規模なパン屋は、明日からパンを焼くことすらできなくなる。
「理由は? パン屋組合が製粉ギルドに何か不義理をしたの?」
「違います! 親方たちが問いただしたら、製粉ギルドの上のほうへ文化評議会の商務書記から通達が来たって。『フォンテーヌ座との協賛は審査上の懸念になる』って……!」
背筋に、冷たい汗が伝った。
書記が自分の判断で動いたのか、誰かの名義を使ったのかはまだわからない。だが、審査権をちらつかせた事実だけで、小さな店は逆らえなくなる。
「そんな……。パンが焼けなくなったら、親方たちは店を畳むしかなくなっちまう……!」
見習いの少年が、絶望に顔を歪めて泣き崩れる。
自分の劇団が攻撃されるならまだしも、協力してくれた善意の商人を巻き込み、その生活を直接的に脅かす。あまりにも卑劣で、許しがたいやり方だ。
「リゼット……」
隣に立っていたカイの顔から、先ほどまでの動揺が消えた。
彼の灰青色の瞳には、先ほどまでの気弱な狼狽とは別人のような、冷たく静かな怒りが宿っている。彼もまた、事態の深刻さと背後にある圧力を瞬時に理解したのだろう。
「まず、今夜焼く分を確保します。現金で買える在庫と、支払い期限を教えて」
私は少年の肩から手を離し、紙を広げた。守ると約束する前に、明朝のパンを作らなければならない。
本当の戦いは、ここから始まる。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
パン屋組合への小麦取引停止圧力が発覚。文化評議会商務書記の通達経路を調査。今夜分の在庫確保を優先。




