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第17話 王都一の劇団が、看板女優を買いに来る

「あああああ……っ、ごほっ、げほっ!」


澄んだ高音が響くはずの悲恋の場面で、ミーシャの声が突如として掠れ、激しい咳込みに変わった。

フォンテーヌ座の舞台上、『湖の乙女』の稽古中の出来事だった。喉を押さえてうずくまるミーシャに、セバスチャンが慌てて水を持って駆け寄る。

「ミーシャ! 大丈夫ですか!」

私もすぐに舞台へ上がり、彼女の背中をさすった。

「喉に違和感は? 痛みや、血の味はしませんか?」

「いえ、痛みはないわ。ただ、少し高音を出しすぎたみたいで……大丈夫、すぐに再開できるわ」

ミーシャが強がって立ち上がろうとした時、観客席の入り口から低い声が飛んだ。


「立たなくていい。喉を傷めた役者に挨拶をさせる趣味はない」

現れたのは、派手なワインレッドの外套を羽織った三十代の男だった。鋭い眼光と自信に満ちた立ち振る舞い。彼を一目見た瞬間、セバスチャンの背筋が伸びた。

「レナード・ヴォス……! なぜ、王都最大の商業劇団《黄金の仮面》の演出家がここに!」

レナード・ヴォス。豊富な資金力と最新の幻影魔法を駆使し、王都の演劇界を牛耳る男だ。

彼は舞台の下まで歩み寄ると、私には目もくれず、ミーシャに向かって優雅に一礼した。

「ミーシャ・ベル嬢。単刀直入に言おう。次期新月の日に我が《黄金の仮面》が上演する『湖の乙女』で、ヒロインを演じてくれないか? もちろん、移籍金と報酬は君の望む額を弾ませてもらう」


彼は懐から、金の封蝋がされた分厚い契約書を取り出し、舞台の上に置いた。

「なっ……! 我が劇団の看板女優を、こんなあからさまに引き抜きに来るとは!」

セバスチャンが激高するが、レナードは涼しい顔で肩をすくめた。

「彼女ほどの役者に、発声医も複数の代役も用意できない環境は危うい。我が劇団なら専門医を常駐させ、幻影魔法と交代制で喉への負担を減らせる。美貌だけでなく、長く演じる身体ごと守れる」

圧倒的な資金力と魔法技術。それは、今のフォンテーヌ座には逆立ちしても用意できないものだ。


ミーシャは契約書を見つめ、指先で紙の端を強く押さえた。

「……私を、引き抜くですって?」

「そうだ。金額なら今の十倍は出そう。どちらの舞台が君の身体と技術へ長い未来を用意できるか、比べればいい」

レナードの傲慢な提示に、私は一歩前に出た。

「レナード様。当劇団の女優を高く評価していただき、光栄です」

「座長!? 何を言っておられるのです!」

セバスチャンが慌てて私を止めようとするが、私は彼を手で制し、ミーシャに向き直った。

「ミーシャ。貴女の女優としての価値は、私たちが誰よりも知っています。ですが、より良い条件や大きな舞台で輝くチャンスを、私が座長の権限で奪うことはしません」

「リゼット……」

「移籍するかどうかは、貴女自身が決めてください。ただし、即答はしなくて構いません。契約内容をよく比較して、時間をかけて考えてください」

前世の芸能界でも、タレントの移籍問題は常に付きまとった。感情論で引き留めても、しこりが残れば結局はパフォーマンスに影響する。彼女自身が納得して選択しなければ、意味がないのだ。


ミーシャは私の言葉にわずかに目を見開き、それからレナードへと視線を向けた。

「……金額ではありませんわ」

彼女は誇り高く、言い放った。

「私は、ただ綺麗に飾られたお人形になりたいわけじゃない。私の『演技』と『身体』を、どこまで信頼して任せられるか。それを基準に、私が選びます。お返事は、少しお待ちください」

その毅然とした態度に、レナードは面白そうに口角を上げた。

「いいだろう。まず診察を受けろ。返事はその後でいい」

レナードは踵を返し、悠然と劇場を去っていった。


彼が去った後、私はすぐにセバスチャンに指示を出した。

「セバスチャン、今すぐ懇意にしている医師を呼んでください。ミーシャの喉を診てもらいます」

「お、お待ちください座長! 今はそれよりも、ミーシャを引き留める説得を……」

「いいえ。一番優先すべきは彼女の身体です。先ほどの声の掠れ方は、ただの疲労ではありませんでした。すぐに健康状態を記録化します」

前世で、高音を無理に出し続けて喉にポリープを作り、二度と歌えなくなったアイドルを私は知っている。あの時、もっと早く止めていればという後悔が、今の私を突き動かしていた。


駆けつけた医師の診断は「声帯への軽い負担」というものだった。

「大事には至っていませんが、このまま無理をして高音域を出し続ければ、本格的に喉を壊す危険があります」

医師の言葉を聞き、私は即座に契約書の追記を作成した。

「ミーシャ。今日から貴女の診察記録を劇団の公式な健康台帳に入れます。そして、一日の発声量に上限を設け、週に一日の完全休演日を契約として義務付けます」

「そんな! 初演まで時間がないのに、休演日なんて作ったら稽古が遅れてしまうわ!」

ミーシャが立ち上がって反発するが、私は首を横に振った。

「代役を立てます」

「代役!?」

「ええ。貴女が休んでいる間は、他の劇団員がヒロインの動きを代行して立ち稽古を進めます。貴女が本番で最高の演技をするための『休養』です。これを守れないなら、私は貴女を舞台に上げません」

私の断固たる態度に、ミーシャは何か言い返そうと口を開いたが、やがて肩の力を抜いた。

「……わかったわ。貴女がそこまで言うなら、従うわよ。その代わり、本番では絶対に客を泣かせてみせるんだから」

「期待しています。貴女の演技力なら、幻影魔法などなくても勝てますから」

私が微笑むと、彼女は少しだけ嬉しそうに、だがツンと顔を背けた。


その日の夕方。

劇場のロビーで、私は主演のエリックを捕まえて、今後の演出プランについて話し合っていた。

「エリック、ミーシャが休む間は相手役の動きをカバーしてください。八時までに『間』と『沈黙』の設計を決めたい。演出会議に付き合えますか?」

「おう、もちろん任せてくれ! あんな偉そうな演出家に出し抜かれるのは、俺も真っ平御免だからな!」

エリックが意気込んで私の肩にポンと手を置いた、その時だった。


「……随分と、熱心なことだな」

低く、どこか冷気を孕んだ声が背後から降ってきた。

振り返ると、いつもの灰色の外套を着たカイが、静かな足取りでこちらに向かって歩いてくるところだった。

彼の視線は、エリックが私の肩に置いている手へ釘付けになっている。

「カ、カイ様。どうされたのですか?」

私が尋ねると、カイは視線をエリックの手から私へと移し、ふっと表情を和らげた。

「いや、少し近くを通りかかったものでね。差し入れを持ってきた。……だが、今夜はエリック殿と『二人きり』で夜まで会議をする予定だったかな?」

カイの言葉尻に、奇妙な力が入っているような気がした。


「ええ。八時まで、細かい動きを詰めます。……あの、カイ様?」

「そうか。それは劇団の死活問題だな」

カイは深く頷き、持っていた紙袋を長机の上に置いた。

「ならば、私も後援者としてその会議に同席しよう。演劇史の知識や、観客としての視点が必要になるかもしれないからね。何より、夜遅くに若い男女が二人きりで密室にいるというのは……その、防犯上の観点から見ても良くない」

「防犯上? ですが、ここは劇場の中ですし、セバスチャンたちも残っていますが」

私が首を傾げると、カイはわずかに言葉に詰まり、視線を泳がせた。

「と、とにかく! 私にも手伝わせてくれ。夜食なら、この袋に人数分入っている!」

彼は半ば強引に長机の椅子を引き、私の隣にどっかりと腰を下ろしてしまった。


エリックがポカンとした顔で私とカイを交互に見比べる。

「えっと……この人、ただの後援者なんだよな? なんでこんなに必死なんだ?」

「さあ……? 熱心な演劇ファンだから、演出の裏側が気になったんじゃないかしら」

「ふーん……まあいいけどよ」

エリックは気を取り直して台本を開いた。

「それじゃあリゼ、この『湖の別れ』のシーンなんだが、俺がヒロインの手を取って引き寄せる動きを――」

エリックが身振り手振りを交えて私に近づこうとした瞬間、カイがすかさず二人の間に分厚い演劇史の文献をスッと差し込んだ。

「カイ様? 急に本を広げてどうしたんですか?」

「いや! この場面の歴史的背景を確認しておこうと思ってね。気にせず続けてくれ。私は『全く』気にしていないから」

カイは本から半分だけ顔を出し、エリックの動きを鋭く監視している。

露骨に邪魔をしているわけではないが、その醸し出す威圧感と不自然な行動は、どう見ても『嫉妬』という感情に突き動かされているようにしか見えなかった。

(やっぱり、カイ様は私のことが……?)

先日芽生えたKの正体への疑念と、目の前で不器用に取り繕う彼の姿が重なり、私は口元が緩みそうになるのを堪えた。


八時きっかりに奇妙な演出会議を終え、私は自室に戻って一息ついた。

ミーシャの休演と代役稽古の手配、そして《黄金の仮面》との対決に向けた準備。やるべきことは山積みだが、不思議と心は前を向いていた。


しかし、その穏やかな疲労を打ち破るように、通信晶石がけたたましい警告音を鳴らした。

セバスチャンからの緊急連絡だった。

「座長! すぐにご確認ください! 魔法掲示板の《声の広場》が大変なことになっています!」

私は急いで端末を立ち上げ、掲示板の画面を空間に投影した。

そこには、匿名のアカウントから投稿された、目を疑うような見出しが躍っていた。


『フォンテーヌ座の満席は捏造! 座長は金でサクラを雇い、感想を買っている!』


画面には、まことしやかに捏造された「感想の買取価格表」や、私が小間物屋の女将にチケットを渡している場面を悪意的に切り取った証拠画像(魔写絵)が添付されていた。

「金で感想を買っている……!?」

それは、私たちが積み上げてきた観客との信頼を根底から否定する、悪質な告発だった。

コメント欄にはすでに、「騙された」「やっぱり税金泥棒の劇団はやり方が汚い」といった批判が次々と書き込まれ、炎上状態となっている。


《黄金の仮面》との対決を前に、目に見えない悪意の火の手が、私たちの劇場を包み込もうとしていた。


【本日のフォンテーヌ座収支】

借金残高:10,000,000リル

【声の広場・観劇板】

投稿者:匿名

拡散希望。フォンテーヌ座は感想を買っている。あの熱狂は金で作られた偽物だ。

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