第16話 王立文書院の演劇好き
「第三書庫の奥、過去の演劇関連の条例をまとめた法典はこの棚だ」
王立文書院の高くそびえる書架の並びで、案内役のカイが足を止めた。
窓から差し込む斜光が、空気中を舞う細かな埃を黄金色に照らしている。静寂に包まれたこの場所は、王都の喧騒が嘘のように穏やかだった。
先日、魔写絵の予約が殺到したことを受け、私は前世で何度も頭を悩ませた「海賊版」や「高額転売」の対策を打つ必要に迫られていた。そこで、カイが教えてくれた旧条例の現物を確認し、法的根拠を固めるためにこの王立文書院を訪れたのだ。
「ありがとうございます、カイ様。ええと、旧文化財保護の項は……あ、あそこですね」
私は背伸びをして、自分の頭上よりも高い位置にある分厚い革張りの背表紙へ手を伸ばした。
しかし、法典は想像以上に重く、指先が触れてもなかなか引き出せない。
「少し貸してくれ。重いから、無理をして落とすと危ない」
背後から、カイがスッと手を伸ばしてきた。
彼の長い腕が私の頭上を越え、法典の背表紙を掴む。その瞬間、彼の大きな手が、本に添えていた私の手に重なるようにして触れた。
「あっ」
「……すまない」
肌と肌が触れ合った熱に、私は思わず小さく声を漏らし、彼もハッとしてわずかに指先を引いた。
至近距離に彼の胸板があり、落ち着いた香水の匂いが鼻先を掠める。心臓が不自然に跳ねたのをごまかすように、私は慌てて法典を両手で受け取った。
「だ、大丈夫です! ありがとうございます!」
「あ、ああ……。閲覧用の机はあちらだ。運ぼう」
カイの横顔は平静を装っていたが、その視線はどこかぎこちなく宙を泳いでいた。
閲覧机に法典を広げ、二人で該当の条項を探し出す。
『舞台を主とする芸術従事者の肖像は、本人の同意と所属団体の許諾なくして、これを営利目的で複製・販売してはならない』
「ありました! この一文を契約書と窓口の掲示に引用すれば、無断複製や転売に対する明確な法的抑止力になります。これで、ミーシャやエリックの権利を正当に守れます」
私が安堵の息を吐き出して顔を上げると、向かいの席に座るカイが、ひどく優しい、けれどどこか真剣な眼差しで私を見つめていた。
「カイ様?」
「……いや。君は本当に、役者の権利と未来を第一に考えているのだなと思ってね」
「当然です。彼らの才能を世に出すのは私の仕事ですから」
私が答えると、カイはふっと目を伏せ、静かな声で紡いだ。
「君は彼らを送り出す座長だ。君が倒れれば、君が世に出そうとしている役者たちも迷子になる。……だから、自分の体も契約の中に入れてくれ」
その言葉を聞いた瞬間、私の全身の血の気がサッと引いた。
(君が倒れれば、役者たちも迷子になる……?)
それは、匿名後援者Kから届いた返事とほとんど同じ言い回しだった。
「カイ様……」
私はゆっくりと、彼を見据えた。
「どうして、その言葉を?」
「……えっ」
「私、その言葉を、ある人に宛てた手紙の中でしか使ったことがないのですが」
カイの肩が、びくりと大きく跳ねた。彼の灰青色の瞳が、かつてないほど激しく動揺に揺れている。
「あ、いや……! そ、それは一般論だ! 座長というものは皆、重圧に足がすくむものだろうと推測しただけで……深い意味は全く、これっぽっちもない!」
カイは裏返った声で早口に弁解すると、机の上の別の文献をガバッと手に取り、自分の顔を隠すように開いた。
「おーい、リゼ! こんなところにいたのか!」
静かな書庫に響き渡る声とともに、エリックが手を振りながら小走りで近づいてきた。
「エリック? どうしてここに」
「セバスチャンさんに、座長は文書院に行ったって聞いてさ。急ぎの知らせがあって迎えに来たんだ」
エリックが私の肩をポンと軽く叩いて笑いかけてきた、その時。
顔を隠していたカイの持つ文献が、ピクッと不自然に動いた。
「……リゼ?」
カイの信じられないほど低い声が漏れた。
「あ、ええ。最近、エリックは私のことを愛称で呼ぶようになりまして。劇団内の結束も深まってきた証拠だと――」
「役者が座長を愛称で呼ぶほど、随分と距離が近いのだな」
カイが本から半分だけ顔を出し、エリックを冷ややかに射抜いた。その目は明らかに不機嫌さを帯びている。
「え? ああ、俺たち苦労を共にしてるんで! な、リゼ!」
エリックが無邪気に笑うと、カイはさらに険しい顔になり、口元を引き結んだ。
「カイ様? もしかして、気に障りましたか……?」
「気にしていない」
即答だった。
「全く気にしていない。ええ、気にする理由がないからな」
三回も連続で否定するカイの耳は、信じられないほど真っ赤に染まっていた。
嫉妬。そんな言葉が脳裏をよぎる。Kの正体への疑いも濃くなったが、問い詰められる証拠にはまだ足りない。
「あの、カイ様……」
私は、彼が顔を隠すために必死に持ち上げている本を指差した。
「その本、上下逆さまですけれど」
「なっ……!?」
カイは本をバタンと激しく閉じ、今度こそ顔全体を真っ赤にして立ち上がった。
「わ、私は少し奥の書架を整理してくる! 君たちは仕事の続きを!」
彼は逃げるようにして、書架の奥深くへと消えていった。
「なんだあの人。やけに慌ててたな」
首を傾げるエリックに向き直り、私は頭を切り替えた。
「それより、急ぎの知らせって何ですか?」
「あ、ああ、そうだった! 表の公式掲示板を見てくれ。王都最大手の大商業劇団《黄金の仮面》が、次の公演日程と演目を発表したんだ」
エリックから渡された一枚の羊皮紙の写しを見て、私は言葉を失った。
そこには、華やかな装飾文字でこう書かれている。
『黄金の仮面・最新特別公演 古典悲恋劇「湖の乙女」
――次期新月の日、王都劇場にて開幕』
「次期新月の日……私たちの第二部の初日と同日じゃない!」
「そうなんだ。しかも、演目も俺たちが次に予定している『湖の乙女』と丸被りだ。あっちの演出家は、幻影魔法を派手に使うことで有名なレナード・ヴォスだぜ。どう考えても、意図的に俺たちを潰しに来てる」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
《黄金の仮面》の所有法人の裏には、文化評議会議長マルセル公爵がいるという噂がある。私たちが補助金への依存を断ち切り、自力で満席を作り出したことが、よほど彼らの気に障ったらしい。
資金力も、魔法の規模も、劇場の規模も圧倒的に格上の相手による、同日同演目の直接対決。
私たちの次なる試練が、容赦なく幕を開けようとしていた。
* * *
王立文書院の奥深く、副院長室。
クラウス・フォン・アストリアは、一人執務机に突っ伏し、深い自己嫌悪に沈んでいた。
「……まさか、本を逆さに持つとは」
己の知性と理性が、あの少女の前ではいとも簡単に崩壊していく。嫉妬を悟られまいと必死に取り繕った結果がアレだ。それに、Kとして書いた手紙の文言をそのまま口走るという致命的なミスまで犯してしまった。
彼女の鋭い観察眼なら、確実に疑いを持っているはずだ。
「殿下」
音もなく現れた密偵の報告に、クラウスはゆっくりと顔を上げた。
「《黄金の仮面》の日程登録に、文化評議会の書記が同席しています。レナードは商業上の判断だと説明し、指示書も見つかっていません」
「……疑いだけでは止められないか」
クラウスの灰青色の瞳が、冷たく暗い光を帯びた。
法に反する圧力があったのなら、彼女の成果とは別に止めねばならない。しかし今手元にあるのは、同席の記録だけだ。
「レナードの安全計画と契約の件を洗え。事実が出るまで、推測を王命に変えるな」
密偵が頷いて消える。クラウスは窓の外の劇場街を見つめ、彼女の小さな背中を思い描いた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【声の広場・観劇板】
投稿者:匿名
おい、《黄金の仮面》がフォンテーヌ座と同じ日に『湖の乙女』をやるって告知が出てるぞ!
返信:
マジか。圧倒的な魔法演出の《黄金の仮面》に、弱小劇団が同じ演目で勝てるわけないだろ……。




