第14話 私は商品ですか、女優ですか
「これを、不特定多数の客に売るというの?」
事務所の長机の上に並べられた試作品の魔写絵を前に、ミーシャの低い声が響いた。
先日、予約箱を試験的に設置したところ、私たちの想定を遥かに超える三百枚もの予約が殺到した。魔法技師のノエルが定めた製作時間内で焼き付けた試作品は、舞台上のミーシャの横顔や、エリックの躍動感ある姿を鮮明に捉えていた。
だが、被写体であるミーシャの顔は、驚くほど冷たく強張っていた。
「ミーシャ? どうかしたの? すごく綺麗に写っていると思うけれど」
私が尋ねると、彼女は試作品の一枚を手に取り、嫌悪感すら滲ませてそれを机に放り投げた。
「ええ、綺麗でしょうね。でも、これじゃあ前と同じだわ。案内札は、私が選んだ一枚を公演告知にだけ使う約束だった。でも、これは違う」
「前と……?」
「私はずっと、演技ではなく『顔』だけを評価されてきたのよ。高尚な古典史劇に出ても、客が見ているのは私のドレスの胸元と整った顔立ちだけ。……この絵を不特定多数の男たちに売るということは、私はまた、自分の顔を切り売りするだけの『商品』に戻るということじゃないの!?」
彼女の怒りは、女優としての切実な矜持からくるものだった。
喜劇の舞台で泥臭く粉を被り、初めて「演技」で観客の心を動かした彼女にとって、自分の顔だけを切り取られた魔写絵が商品として流通することは、これまでの努力を否定されるように感じたのだろう。
「座長。……その、僕の魔法の腕が悪かったのでしょうか」
部屋の隅で、ノエルが消え入りそうな声で呟いた。
「違うわ、ノエル。貴方の技術は素晴らしい。問題なのは……」
ミーシャが悔しげに目を伏せた、その時。
「問題なのは、売ることと奪うことの境界線が曖昧なことだ」
開け放たれた事務所の扉から、静かな声が響いた。
見ると、いつもの灰色の外套を着たカイが、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「カイ様……。また勝手に裏口から入ってきたのですか?」
「ああ、すまない。後援会サロンのついでに寄らせてもらった。……彼女の怒りはもっともだ。自分の姿がどう使われるかわからないまま、劇団の利益のために顔を売られれば、それは誇りを『奪われた』のと同じことだからね」
彼はミーシャの怒りを的確に言語化してみせた。
私はカイの言葉に頷き、ミーシャに向き直った。
前世でも、アイドルの写真やグッズ販売は常に「消費される側の尊厳」という問題と隣り合わせだった。運営側が利益だけを優先すれば、タレントの心はすぐに壊れてしまう。
「ごめんなさい、ミーシャ。私が売上数字の多さに目を奪われ、貴女の気持ちの確認を後回しにしてしまったのは事実です」
私は深く頭を下げた。
「ですが、私は貴女の顔だけを切り売りするつもりはありません。貴女の『女優としての誇り』を守ったまま、この魔写絵を販売する方法があります」
「誇りを、守ったまま……?」
「ええ」
私は引き出しから新しい契約書を取り出し、長机の上に広げた。
「一つ。販売する魔写絵の絵柄は、全て事前に被写体である役者自身が確認し、納得したものだけを商品化します。自分が世に出したくないと思った写真は、販売を拒否する権利を貴女に与えます」
ミーシャの目が、わずかに見開かれた。
「二つ。販売期間と枚数を限定し、無制限に市場に出回ることを防ぎます。そして三つ。これが最も重要ですが……魔写絵の売上利益の四十パーセントを、被写体である役者本人に直接還元する仕組みを契約に組み込みます。残りの三十パーセントがノエルの製作費、三十パーセントが劇団の取り分です」
「よ、四十パーセント!?」
セバスチャンが悲鳴のような声を上げた。
「座長、それでは劇団の利益が少なすぎます! 一千万リルの借金があるのですよ!?」
「目先の利益よりも、役者の権利を守ることの方が重要です」
私はセバスチャンの抗議をピシャリと跳ね除け、ミーシャの目を見つめた。
「貴女はただ消費されるだけの『商品』ではありません。この舞台を作り上げる共同制作者です。……自分の意思で写真を選び、正当な対価を受け取る。それでも、貴女は自分の顔が売られることは嫌ですか?」
ミーシャは契約書と、机の上の試作品を交互に見つめた。
やがて彼女は、試作品の中から一枚の魔写絵を手に取った。それは第一幕の終盤、粉まみれになって本気の怒りを露わにしている、決して美しくはない彼女の姿だった。
「……これなら」
彼女は小さな声で呟いた。
「ただ綺麗に微笑んでいるだけの顔じゃない。私が、本気で演技をしているこの顔なら……お客様にお渡ししてもいいわ」
彼女の顔から、先ほどの怒りと強張りが消え、女優としての強い誇りが戻っていた。
「ありがとう、ミーシャ」
私は心底ホッと息を吐き出し、契約書に彼女のサインをもらった。
「見事な采配だったね」
事務所を出てロビーへと向かう廊下で、カイが歩きながら声をかけてきた。
「いいえ、私が最初に配慮を怠ったのが原因です。カイ様が的確に指摘してくださらなければ、彼女の心に深い傷を残すところでした」
「私はただ、一人の観客として感じたことを言ったまでだ。……それにしても、利益の四十パーセントを本人に還元するとは。君は本当に、役者を大切にしているのだな」
「当然です。彼らの才能を搾取しないことが、私の絶対のルールですから」
ロビーに出ると、すでに今日の公演の予約客たちが集まり始めていた。
「おや」
カイがふと足を止め、ロビーの隅に設置された魔写絵の販売窓口へと向かった。
窓口には、ミーシャとエリックの魔写絵がサンプルとして並べられている。
「……これを、全種類一枚ずつもらおう」
カイは窓口のノエルに金貨を渡し、すべての魔写絵を買い占めようとした。
(相変わらず、保存用の収集癖がすごいのね)
私が少し呆れたように見ていると、カイは受け取った魔写絵の束を一枚ずつ確認し始めた。
そして、エリックの魔写絵――舞台上で情けなくも真剣に告白している姿――を見た瞬間。
彼は無言で、そのエリックの魔写絵だけをパタンと裏返したのだ。
「えっ……? カイ様、今、どうしてエリックの写真を裏返したのですか?」
私が思わず尋ねると、カイの肩がビクッと跳ねた。
「なっ、なんだ。別に、他意はない」
「でも、他の写真はちゃんと表を向いているのに、エリックのものだけ……」
「光だ!」
カイは少し裏返った声で言い張った。
「光の反射で、紙が傷むといけないからな! 魔法の感光紙は繊細だろう!? だから、あの、一時的に裏返しただけで……深い意味は全くない!」
早口でまくし立てるカイの耳は、信じられないほど真っ赤になっていた。
光の反射と言うが、窓口は日陰で直射日光など一切当たっていない。それに、本当に紙を気遣うなら、ミーシャの写真も裏返すはずだ。
なぜ、エリックの写真だけを?
(もしかして……エリックの人気に、嫉妬している?)
いや、まさか。彼はただの演劇好きの研究員で、私たちの舞台を応援してくれているだけだ。そんな個人的な感情を抱く理由がない。
私が不可解な思いで彼を見つめていると、カイは耐えきれなくなったように咳払いをした。
「そ、そろそろ開演の時間だ! 私は席に戻る。ではな!」
彼は私が何かを言うより早く、逃げるように一般席の扉の中へと消えていった。
その夜。
自室で一息ついていると、匿名後援者Kからの手紙が届いた。
昨日、私が「皆を限界まで働かせすぎてしまうのが怖い」と吐露した弱音に対する、彼からの返事だ。
私は祈るような気持ちで便箋を開いた。
『君の手紙を読んだ。
間違っていたら教えてほしい、と君は書いた。ならば一つだけ。責任を一人で背負うことと、彼らの選択を守ることは違う。
今日、君は看板女優に拒否権と正当な取り分を渡した。売ることと奪うことを区別した、その判断を私は信じる。K』
私は手紙を胸に抱きしめ、張り詰めていた肩を落とした。
私の恐怖を否定せず、判断のどこを見たのかまで書いてある。
だが、同時に、強い疑問が湧き上がってくる。
(どうしてKさんは、今日の事務所での契約の話を知っているの?)
あの密室のやり取りを知っているのは、劇団員と、あそこに居合わせたカイだけだ。
そして、Kの手紙の「売ることと奪うことを区別した」という表現。
それは今日、事務所の扉の前でカイが言った「売ることと奪うことの境界線」という言葉と、あまりにも似通っていた。
私は手帳に挟んである過去の手紙の束を取り出し、まじまじと見つめた。
(カイ様と、Kさん……?)
まさか。いくらなんでも、ただの研究員と最古参の匿名後援者が同一人物だなんて。
けれど、一度生まれた疑念の種は、私の心の中で静かに、だが確実に芽吹き始めていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
魔写絵の販売利益に関する本人への還元契約を締結。カイ氏の挙動に不自然な点あり。




