第12話 税金ではなく、拍手で黒字にします
「この劇場の帳簿は、埃を被った古典の台本よりも退屈で、ひどく不透明ですね」
冷え切った声が、誰もいない昼下がりの客席に響き渡った。
声の主は、仕立ての良い漆黒の執務服に身を包み、神経質そうな銀縁眼鏡をかけた壮年の男性。国家の予算を握る財務卿、アルベルト・クラインその人だ。
王立認定再審査の期限まではまだ二ヶ月以上の猶予があったにもかかわらず、彼は予告なしに劇場を訪れ、過去数年分の帳簿をくまなく調べ上げていた。
「過去数年間の収支報告を見せていただきました。座長殿」
アルベルトは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、感情の読めない視線を私に向けた。
「フォンテーヌ座は長年、文化評議会から支給される赤字補填の補助金に依存して生き延びてきた。にもかかわらず、貴女が座長を引き継ぐ直前の二ヶ月間、役者や裏方への賃金が遅配している。補助金を受け取っていながら現場に金が回っていない。これは興行として破綻している証拠であり、不透明な資金運用の極みです」
私の隣で、セバスチャンの顔からさらに色が引いた。
「そ、それは前座長が舞台装置に過剰な投資をしてしまったためでして……決して不正流用などをしたわけでは……!」
「結果が全てです」
アルベルトはセバスチャンの弁明を冷たく切り捨てた。
「血税から成る補助金を、賃金すら払えない劇団に注ぎ込み続けるわけにはいきません。芸術は数字の免罪符にはならない。よって、フォンテーヌ座への王立補助金は即時停止を通告します」
即時停止。
その言葉に、セバスチャンだけでなく、舞台袖で控えていた劇団員たちにも絶望の波が広がった。今ある借金一千万リルに加え、劇団の命綱であった国からの定額収入まで絶たれるということだ。
だが、私は慌てなかった。帳簿を見直した時から、いずれこのメスが入ることは予想していたからだ。
前世の芸能界でも、不透明なスポンサー収入に依存しているグループは、出資者の気まぐれや業績悪化で一夜にして解散に追い込まれた。他人の財布に命綱を握られている状態ほど、興行において危険なものはない。
「承知いたしました」
私が短く、はっきりと答えると、アルベルトはわずかに目を丸くした。泣きついて減免を乞うとでも思っていたのだろう。
「補助金の即時返上、受け入れます。同時に、当劇団の全収支を透明化し、王立認定の再審査が行われる九十日後までに、完全な自立経営を成立させることをここにお約束します」
「……本気ですか? 国の支援なしで、この一千万リルの負債を抱えたまま劇団を維持できると?」
「できます。そもそも、一部の権威や不透明な資金に頼るから、観客の本当の需要から目を背けることになるのです。お客様が本当に観たいものを届け、適正な対価をいただく。それが興行の本来の姿です」
私はアルベルトの鋭い視線を真っ向から受け止め、堂々と宣言した。
「では税金ではなく、拍手で黒字にしてみせます」
静寂が降りた劇場内で、私の言葉だけが凛と響いた。
私の背後に控えていたカイが、小さく息を吐く気配がした。最上位後援者として財務卿へ口添えを求めることもできただろう。だが、彼は私の返答を遮らなかった。その沈黙に、私は密かに感謝した。
アルベルトはしばらく私をじっと見つめていたが、やがて帳簿をパタンと閉じた。
「……威勢の良い言葉です。ですが、私は数字と結果しか信じない。九十日後の本審査で、貴女のその言葉が真実かどうか、厳しく評価させていただきます」
アルベルトは一礼もせず、静かな足音を立てて劇場を去っていった。
「座長……本当に、補助金なしでやっていけるのでしょうか」
セバスチャンが震える声で尋ねてきた。
「やるしかありません。それに、今日の三回目の公演も満席です。私たちの手で作った利益が、すでに手元にあります」
私は劇団員たちを振り返り、力強く頷いてみせた。
その夜。自室の机で翌日の演目計画を練っていると、匿名後援者Kからの手紙が届いた。
便箋を開くと、そこにはいつもの流麗な筆跡が並んでいる。
『財務卿に対する君の宣言は、実に素晴らしいものだった。
権威の金にすがりつかず、観客の評価だけを信じて自立を選ぶ。その覚悟と誇りに、私はますます君の舞台から目が離せなくなった。』
私が見せた強気な姿勢を、Kは正確に読み取り、肯定してくれた。
指先の冷えがほどけるのを感じながら、私は続く文面に目を落とす。
『だが、その覚悟を口実に、自分の限界を無視して働き続けることは認めない。
君は今日、舞台裏で倒れかけたそうだな。
自分自身を犠牲にして成り立つ舞台は、いずれ必ず破綻する。
君が倒れれば、君が世に出そうとしている役者たちも迷子になるのだ。
どうか、休むことも座長の重要な責務だと理解してほしい。』
手紙の端が、指に食い込んだ。
(倒れかけたこと……どうしてKさんが知っているの?)
今日、私が倉庫で倒れそうになった時、支えてくれたのはカイだけだった。他の劇団員は誰も見ていないはずだ。
偶然、どこかで誰かが見ていたのだろうか。それとも、私の顔色が悪かったのが客席のKにも伝わってしまったのだろうか。
言いようのない違和感が胸をかすめたが、それ以上に、私という人間をここまで深く気遣ってくれるKの言葉が、ひどく心に染み入った。
「……休むのも、責務、か」
私は羽ペンを置き、今日だけは少し早めにベッドへ向かうことにした。
* * *
王立文書院の副院長室。
分厚い法典が並ぶ執務室の奥で、第二王子クラウス・フォン・アストリアは、一人静かに報告書へ目を通していた。
灰色の簡素な外套はすでに脱ぎ捨てられ、王族としての冷徹な顔がそこにはある。
「……文化評議会議長、マルセル公爵の動きが活発になっています」
音もなく現れた密偵の報告に、クラウスは視線を落としたまま頷いた。
「アルベルト財務卿の視察は、私の予想よりも早かった。だが、アルベルト自身は不正を憎む公正な男だ。彼の視察を促した評議会付文書に、事実と異なる記載が二つある。誰が書かせたのかを追う」
クラウスは机上の書類を指で弾いた。
そこには、王都最大の商業劇団《黄金の仮面》の所有法人と、グルニエ文化振興財団の間で支出名目が食い違う、断片的な記録があった。不正と断じるには原本と送金先の照合が要る。
マルセル公爵は、王都の文化は格式ある貴族が管理すべきだと公言している。庶民向けの喜劇で満席を作り、補助金依存から脱却しようとするフォンテーヌ座とは、いずれ正面から衝突する。
「殿下。公爵の専横を止めるため、王妃殿下を通じて直接の王命を下してはいかがでしょうか」
「それは駄目だ。私が王子の名で彼女を守れば、彼女の舞台は『王族に媚びて生き延びた劇団』になり下がる。彼女が証明しようとしている独立性を、私自身の手で壊すことになる」
クラウスは窓の外、劇場街の方向へと視線を向けた。
彼女は自分の足で立とうとしている。ならば自分は、その舞台を奪う違法な妨害だけを止める。成果まで自分のものにしてはならない。
「マルセル公爵の資金繰りについて、さらに詳細な裏付けを取れ。それから……」
クラウスはふと、今日劇場の薄暗い倉庫で、今にも倒れそうになっていた華奢な身体の感触を思い出した。
「パン屋組合の組合長に連絡を取り、劇団への差し入れを増やすように手配しろ。もちろん、出処は匿名でだ」
密偵がわずかに呆れたような息を吐いて一礼し、闇へと消える。
クラウスはただ一人、彼女の気高い宣言を思い返し、静かに決意の炎を燃やしていた。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル




