第11話 満席より先に、あなたが倒れます
「申し訳ありません! 本日の公演は、立ち見席を含めて全て完売いたしました!」
劇場外の広場に、エリックの申し訳なさそうな、けれど隠しきれない喜びを含んだ声が響き渡る。
公開調停から数日が経ち、『恋するパン屋と秘密のレシピ』はついに三公演連続の満席を記録した。窓口には当日券を求める待機客の列ができ、終演後に販売している『限定台本小冊子』も、印刷が追いつかないほどの勢いで完売を繰り返している。
「座長! パン屋組合から追加の割引券が届きました。それと、次回の小冊子の印刷部数ですが……」
「割引券は案内の裏へ添付して。印刷部数は前回の二割増し、ただしインクの予備費を原価に組み込んで再計算してから発注をかけてください。トーマ、第二幕の回転台の軋み音、確認しましたか? ノエル、照明晶石の残量は……」
私は舞台裏の薄暗い通路で、次々と押し寄せる確認事項を秒単位で捌き続けていた。
頭の中は常に数字と段取りで埋め尽くされている。遅配していた賃金の一部をようやく支払い、劇団員たちの顔にも活気が戻ってきた。
だが、彼らが輝けば輝くほど、私の心の中にある強迫観念が首をもたげてくる。
(皆を休ませなければ。抜けがないよう、私が手配しなければ)
数日前に匿名の後援者Kへ送った手紙。そこに記した通り、私は前世で才能を搾取し、仲間を倒れさせてしまった恐怖から逃れられずにいた。
だからこそ、彼らが休演日をとれるように、私は裏方の実務から経理、宣伝の準備に至るまで、すべての作業を一人で抱え込んでいた。
「座長、少し休まれては? 朝から何も召し上がっていないでしょう」
セバスチャンが心配そうに声をかけてきたが、私は手元の書類から目を離さずに首を振った。
「大丈夫です。次の開場までにこの契約書を処理してしまわないと。食事は後で取りますから」
「ですが……」
「問題ありません。私は裏方ですから、少々顔色が悪くても舞台には影響しませんよ」
私はセバスチャンを宥め、足早に倉庫へと向かった。在庫の確認をしなければならない。
薄暗い倉庫に足を踏み入れ、木箱の数を数えようとした時だった。
ふらり、と不意に視界が揺れた。
「……っ」
壁に手をつこうとして空を切り、膝から崩れ落ちそうになる。
だが、冷たい床に身体が打ち付けられるより早く、力強い腕が私の肩と背中をしっかりと支え止めた。
「無茶を言い張るのも、大概にしてくれないか」
頭上から降ってきたのは、少し怒気を孕んだ、けれどひどく聞き心地の良いバリトンボイス。
顔を上げると、端正な顔をしかめたカイが、私を抱きとめるようにして立っていた。
「カ、カイ様……? どうして舞台裏に」
「君がいつまでも客席に顔を出さないから、様子を見に来たんだ」
カイは私をそっと近くの木箱に座らせると、大きなため息をついた。
「顔色が紙のように白い。朝から何も食べていないというのは本当か?」
「それは……時間が、惜しかっただけで」
私が言い訳をしようとすると、彼は持っていた紙袋を私の膝の上に半ば強引に押し付けた。
ふわりと、甘く香ばしい匂いが漂う。
袋の中には、先日私が屋台で立て替えて買ったものと同じ胡桃パンと、氷魔法で冷やされた新鮮な果実水が入っていた。
「これを食べなさい」
「カイ様、お心遣いは嬉しいのですが、今はまだ作業が……」
「これは差し入れではない。座長の『稼働率対策』だ」
カイはきっぱりと言い放った。
「君が倒れて劇団の運営が止まれば、私が投資した後援資金が無駄になる。だから、これはあくまで効率的な運営のための業務命令として食べてほしい」
稼働率対策。私がよく使うような理屈を並べているが、彼の耳の端は少し赤くなっている。
それに、胡桃パンは私の好物だと一度口にしただけなのに、覚えていたらしい。
私は観念して、胡桃パンを一口かじった。優しい甘さが、空っぽの胃と強張った心に染み渡っていく。
「……美味しいです。でも、もし私が倒れても、公演は止まりませんよ」
私は果実水で喉を潤し、ポツリと呟いた。
「主要な業務は手順書にしました。前売り、転換、事故対応。私がいなくても幕が上がる状態にしておくのは、座長の仕事です」
数字と論理。それに依存していれば、私はただの機能として彼らを支え続けることができる。私が推されなくても、私が必要なくなっても、彼らは輝き続ける。
それを聞いたカイの灰青色の瞳が、スッと細められた。
彼は私の隣に膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。
「それは違う」
静かな、けれど断固たる声だった。
「君が作った手順書があれば、確かに幕は上がるかもしれない。だが、客の呼吸を読み、役者の僅かな感情の揺れを掬い上げ、満席の熱狂を作り出せるのは、他の誰でもない君だけだ」
カイは私の目から一切視線を逸らさず、言葉を紡いだ。
「君がいない成功を、私は成功とは呼ばない」
パンを持つ手が止まった。機能ではなく、私が必要だと彼は言った。
「……カイ様は、時々、本当に不思議なことをおっしゃいますね」
私が少しだけ涙ぐみそうになるのを誤魔化して笑うと、カイはハッとしたように顔を背けた。
「あ、いや……ただの投資家としての意見だ。深い意味はない」
早口で言い訳をする彼の横顔を見つめながら、私は胡桃パンの最後の一口を飲み込んだ。
胡桃の甘さより、その一言の方が長く舌に残った。
「さて。十分休ませていただきました。稼働率対策、バッチリです」
私は立ち上がり、服の埃を払った。
「ありがとう、カイ様。……私、倒れないように気をつけますね」
「ああ。必ずそうしてくれ。君が倒れる姿など、二度と見たくないからな」
カイが何かを言いかけた時、通路の奥からセバスチャンの焦ったような声が響いた。
「座長! いらっしゃいますか、座長!」
セバスチャンは血相を変えて倉庫に飛び込んできた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「お、表に、財務卿のアルベルト・クライン様がいらっしゃっています! 文化評議会の認定再審査を前倒しして、今すぐ劇団の視察を行いたいと……!」
財務卿アルベルト。国家の予算を握り、冷酷な現実主義者として知られる男だ。
本来なら、認定再審査の期限まではまだ二ヶ月以上の猶予があったはずだ。なぜ、突然視察が前倒しになったのか。
「……満席の噂を聞きつけて、直接粗探しに来たというわけですか」
私は表情を引き締め、敏腕マネージャーのスイッチを入れ直した。
「カイ様、ありがとうございました。行ってきます」
私が倉庫を後にしようとすると、カイがすっと立ち上がり、私の隣に並んだ。
「私も行こう。劇団の後援者として、視察に立ち会う権利くらいはあるはずだ」
屋台で硬貨に迷った青年とは別人のような、鋭い光がその目に宿っていた。
私たちは足早に劇場の正面ロビーへと向かった。
そこには、仕立ての良い漆黒の執務服に身を包み、神経質そうな銀縁眼鏡をかけた壮年の男性――財務卿アルベルトが、冷ややかな目で劇場の内装を見回して立っていた。
「貴女が、この古い劇場の新しい座長殿ですか」
アルベルトの鋭い視線が私を射抜く。
「本日は、帳簿と舞台裏のすべてを拝見させていただきます。税金泥棒と呼ばれたこの劇団に、これ以上国庫からの補助金を注ぎ込む価値があるかどうか、私の目で判断するために」
満席の熱狂の裏側で、国家という巨大な制度の壁が、ついに私たちの前に立ち塞がった。
【本日のフォンテーヌ座収支】
借金残高:10,000,000リル
【座長業務日誌】
三公演連続満席。小冊子完売。財務卿アルベルト氏、前倒し視察のため来訪。




