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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第60話 過去への扉

 三人は、月明かりの下を静かに滑るように進んだ。


 夜の北西の庭は、昼間とはまるで違う顔をしていた。生垣の影は地面に細く長く伸び、夜露を含んだ草は、足が触れるたびにかすかな音を立てる。その小さな音でさえ、今はやけに大きく聞こえた。


 エリオが先頭に立ち、わずかに身を低くして進む。表情はいつも通り冷静だったが、その碧い瞳は一瞬たりとも周囲から離れない。遠くを巡回する兵の足音、鎧の擦れる音、槍の石突きが地面を叩くわずかな響き――それらをすべて拾い分けながら、進むべき瞬間を見極めていた。


 ホロは、その後ろを慎重に歩いていた。


 昼間、水に潜った体はまだ重い。濡れた服は着替えたものの、冷たい水に奪われた体力までは戻っていない。足元の土を踏みしめるたびに、わずかな疲労が膝へ残る。


 それでも、足は止まらなかった。


 ここまで来たのだ。


 石積みの奥に詰まっていた土を取り除き、北西の庭の水をようやく流した。ガルヴァンが監視を外し、エリオが兵の動きを見極め、ルシアが不安を押し殺して隣にいてくれている。


 もう、引き返せない。


 ルシアはホロの少し後ろを、いつでも手を伸ばせる距離で歩いていた。彼の背中が、月明かりの中でかすかに揺れている。疲れているはずなのに、ホロは弱音ひとつ吐かない。


 だからこそ、ルシアは不安だった。


 ホロは無茶をしている自覚がない。誰かのためなら、自分の疲れさえ後回しにしてしまう。今もきっと、北西の裏庭の先にあるものを確かめることだけを考えている。


 ルシアは胸元に手を添え、静かに息を整えた。


 どうか、無事に。


 その祈りを声には出さず、ただホロの背中を見つめる。


 やがて、エリオが片手を上げた。


 三人はその場でぴたりと動きを止める。


 遠くで、巡回兵の足音が聞こえた。ひとつ、ふたつ。規則正しい歩調が扉の前を横切り、やがて少しずつ遠ざかっていく。だが、完全に消えたわけではない。闇の向こうに、まだ人の気配が残っている。


 エリオはじっと待った。


 焦らない。


 ほんのわずかな隙を、確実に掴むために。


 そして、足音が一瞬だけ重なり、兵の視線が扉の正面から外れた。


「……今だ」


 空気に溶けるほど低い声だった。


 三人は、影から影へ移るように進んだ。


 扉は、もう目の前だった。


 北西の裏庭へ続く、ずっと閉ざされていた扉。


 木製の扉は古びていたが、ただ朽ちているわけではない。金具には錆が浮いているものの、外側だけは最低限の手入れがされているように見えた。


 だが、その整い方は、この先を使うためというより、誰かを近づけないために保たれているような不自然さがあった。


 ホロは喉を鳴らした。


 ここまで来た。


 昼間、冷たい水に潜り、排水溝の詰まりを抜き、ようやくここまで辿り着いた。


 見えているのに届かなかった場所。


 誰も触れさせようとしなかった扉。


 その扉に、今なら手が届く。


 ホロが、そっと手を伸ばしかけた。


 その時だった。


 砂利を踏む音が、背後から聞こえた。


 エリオの目が鋭く細まる。ルシアも息を詰め、ホロは反射的に体を強張らせた。


 本来なら、巡回兵が戻るにはまだ早いはずだった。


 だが、足音は明らかにこちらへ近づいてくる。


「……誰かいるのか?」


 巡回兵が、槍の石突きで足元を確かめるようにしながら、闇の中へ一歩ずつ踏み込んでくる。


 ホロの背筋に冷たいものが走る。


 見つかった。


 そう悟った瞬間、時間が止まったように感じた。


 エリオが動こうとする。だが、ここで騒ぎを起こせば終わりだ。兵を斬るわけにもいかない。ルシアも力を使えば、この場所にただならぬ何かが起きたことを知らせてしまう。


 兵がさらに一歩踏み込むとホロ達を見つけた。


「そこで何をして――」


 言葉は、最後まで続かなかった。


 兵の体が、ぐらりと傾いた。


 まるで糸を切られた人形のように、その場に崩れ落ちる。


「……っ」


 ホロが息を呑む。


 倒れた兵の背後に、黒髪を低く束ねた女が音もなく立っていた。


 ミラだった。


 片手には、布を巻いた短い棒のようなものが握られている。月明かりの中で、その表情は普段と変わらず静かだった。


「気絶させただけです」


 あまりにも淡々とした声だった。


 ホロは言葉を失い、倒れた兵とミラを交互に見る。


「ミラさん……」


「声を上げられる前でよかったです」


 ミラは短くそう言うと、周囲を確認した。驚きも焦りもない。最初から、こうなる可能性を想定していたような落ち着きだった。


 ホロは小さく息を吐く。


「……手出しはしないって話じゃなかったのか?」


「見つかって捕まるよりは、ましでしょう」


 返ってきた答えは、まったく迷いのないものだった。


 ホロは苦笑するしかなかった。


「……正直、助かりました」


「では、急ぎましょう。次の巡回が来る前に」


 エリオはすぐに判断した。


「このまま外に置いておけば、別の兵に見つかる。中へ運ぶぞ」


 そう言うなり、エリオは気絶した兵を軽々と抱え上げた。ホロが扉に手をかけると、重い木の感触が掌に返ってくる。


 鍵は、かかっていなかった。


 内側に厳重な仕掛けがあるのか、それとも外から開けられる者が限られているだけなのか。考える暇はなかった。


 ホロが押すと、扉は鈍い軋みを立てて開いた。


 中から、冷たい空気が流れてくる。


 土と石と、長く閉ざされた場所にしかない、湿ったかびの匂い。


 扉の先に広がっていたのは、庭ではなかった。


 地下へ続く階段だった。


「……下に続いてる」


 ホロが呟く。


 ルシアはその闇を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。


「嫌な空気ね……」


 暗闇は、まるでそこにあるものすべてを隠そうとしているようだった。階段は石造りで、古い苔のような黒ずみがところどころに残っている。明かりはない。月明かりも、扉の入り口をわずかに照らすだけで、奥までは届かなかった。


 ミラが小さく肩をすくめる。


「こんなことだと思いました」


 そう言って、腰に下げていた小さなランタンを取り出した。


 火打ち石を鳴らすと、ほどなく橙色の火が灯る。ランタンの光が石壁を照らし、階段の奥へ細く揺れながら伸びていった。


「用意がいいですね」


 ホロが思わず言うと、ミラは表情を変えないまま答えた。


「こういう場所に、都合よく明かりがあるとは思えませんでしたので」


「……助かります」


「礼は、無事に出られてからで結構です」


 エリオは気絶した兵を担いだまま、先に階段へ足を踏み入れた。


「行くぞ。ここで時間を使うほど危険になる」


 その言葉に、ホロたちは頷いた。


 階段は思ったよりも長かった。


 一段降りるたびに、外の空気が遠ざかっていく。湿った石の匂いが濃くなり、壁を伝う水滴の音が、ぽつり、ぽつりと耳に届いた。ランタンの火はわずかに揺れ、足元に落ちる影が何度も形を変える。


 ホロは階段を下りながら、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じていた。


 ここは、ただの裏庭ではない。


 誰かが隠した場所だ。


 領主邸の奥に、誰にも触れさせず、誰にも近づかせず、長い間閉じ込めてきた場所。


 ルシアはホロのすぐそばにいた。何も言わない。ただ、ランタンの薄明かりに照らされた横顔には、いつもよりも強い緊張が浮かんでいた。


 やがて階段が終わり、四人は少し広い部屋へ出た。


 そこには、何もなかった。


 机も、棚も、箱もない。石壁に囲まれた、ただ広いだけの空間。床には薄く埃が積もり、壁の隅には古い湿気が染みのように残っている。


 あまりにも何もない。


 そのことが、かえって不自然だった。


「……空の部屋?」


 ホロが低く呟く。


 エリオは担いでいた兵を部屋の隅へ静かに下ろし、手早く拘束した。ミラも無言で近づき、兵が目を覚ましてもすぐには声を上げられないよう、口元に布をかませる。


 その動きは、あまりにも慣れていた。


 ホロは何も言わなかった。


 今は、それを問う場面ではない。


 エリオは立ち上がると、部屋の壁へ目を向けた。


「ここまでして、ただの空部屋ということはないだろう」


「ええ」


 ミラも同意し、ランタンを片手に壁際へ近づく。指先で石の継ぎ目をなぞり、床の境目を確認していく。


 エリオは反対側の壁を軽く叩いた。


 ごつ、と鈍い音が返る。


 別の場所を叩く。


 音はほとんど同じだ。


 ホロも壁を見回したが、庭や石積みならともかく、こうした仕掛けを見抜く目はない。どこも同じ石壁に見える。


 ルシアは部屋の中央に立ち、胸元に手を添えていた。


「……ここ、妙に空気が重いわ」


「気配があるのか?」


 ホロが尋ねると、ルシアは少しだけ迷うように目を伏せた。


「生きている気配ではないの。ただ……何かが残っているような感じがする」


 その言葉に、部屋の空気がさらに冷たくなった気がした。


 その時、壁際にいたミラが静かに顔を上げた。


「……風があります」


 全員の視線が集まる。


「風?」


「ええ。閉じた部屋なら、ランタンの火はこうは揺れません」


 ミラがランタンを壁際へ近づけると、火がほんのわずかに横へ傾いた。


 小さな揺れ。


 だが確かに、空気が流れている。


 エリオがその壁へ近づき、石の表面を叩いた。


 今度は、音がわずかに違った。


 中に空間がある。


「この壁の向こうに、別の空間があるな」


 エリオの声は低かった。


 ホロは思わず息を呑む。


 やはり、ここで終わりではない。


 ミラとエリオがさらに壁を調べ始める。石の継ぎ目、床の沈み、わずかな段差。二人の目は、ただの壁の中に隠された違和感を探していた。


 その時、ルシアがふと部屋の隅へ視線を向けた。


 ランタンの光が届きにくい、床に近い角。


 そこだけ、影が少し深い。


 ルシアは静かに歩み寄り、膝をついた。指先で石の表面をなぞると、小さなくぼみがある。


 飾りではない。


 偶然できた傷でもない。


「エリオ」


 ルシアが呼ぶ。


「何かあるわ」


 エリオとミラがすぐに近づいた。ホロも少し遅れて覗き込む。


 床近くの石壁に、小さなくぼみがあった。手のひらで押すには低すぎる位置だが、意図して隠されたものだと分かる。


 ミラが膝をつき、慎重に周囲を確認する。


「罠は……今のところ見当たりません」


 エリオもくぼみを見つめ、短く言った。


「これだな」


 ミラが三人を見上げる。


「念のため、少し下がってください」


 ホロはルシアの腕を軽く引いた。ルシアも素直に身を下げる。エリオはミラの斜め後ろに立ち、万が一に備えている。


 ミラがくぼみに指をかけ、静かに押し込んだ。


 最初は、何も起きなかった。


 沈黙。


 次の瞬間、壁の奥で何かが噛み合うような音が響いた。


 ごご、と低い音が部屋に広がる。


 長く動かされていなかった石が軋み、壁の一部がゆっくりと横へずれていく。石と石が擦れる音は、不気味なほど重かった。


 やがて壁の奥に、さらに暗い通路が現れた。


 その先から、かび臭さに混じって、古い鉄の匂いが流れてくる。


 ホロは思わず唾を飲み込んだ。


「……本当に、あった」


「ここから先が本命だな」


 エリオが静かに言う。


 ミラはランタンを持ち上げ、通路の奥を照らした。


「戻るなら、今しかありません」


 その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


 けれど、引き返す者はいない。


 ホロはルシアを見る。ルシアもまた、静かに頷いた。


「進もう」


 ホロが言うと、エリオは短く頷き、先頭に立った。


 隠し通路は狭かった。


 一人ずつ進むのがやっとで、壁は湿り、指先が触れるたびに冷たい水気が残った。床には薄く埃が積もり、足を踏み出すたびに、長い眠りを乱されたように白く舞い上がる。


 ミラが足元に視線を落とし、低く言った。


「……人が通った形跡はありませんね」


 ホロは思わず足を止めた。


「ずっと……誰も来ていないってこと?」


「少なくとも、最近誰かが出入りした様子はありません。埃の積もり方も、空気の淀み方も……長く閉ざされていた場所のものです」


 その言葉に、ルシアの表情が静かに曇る。


「忘れ去られた場所……なのね」


 エリオは壁に指先を滑らせ、湿った石肌と積もった埃を確かめるように見つめた。


「ああ。誰かが守っているというより、誰にも思い出されなくなった場所だな」


 その言葉は、妙に重かった。


 ここはただ隠されていたのではない。


 長い時間の中で、存在そのものを封じられ、忘れられることを望まれた場所なのだ。


 通路をしばらく進むと、目の前に古い木の扉が現れた。


 金具は錆びている。だが、崩れてはいない。


 エリオが扉に耳を寄せ、中の気配を探る。


 沈黙。


 何も聞こえない。


 彼は慎重に扉を押した。


 鍵は、かかっていなかった。


 扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。


 その先にあった光景を見た瞬間、ホロは言葉を失った。


 通路だった。


 だが、これまでの石造りの通路とは違う。


 両側に、鉄格子の部屋が並んでいた。


 まるで牢屋だった。


 ランタンの火が鉄格子を照らし、その影が床に細く伸びる。空気はさらに重く、湿っていた。どこかに残った古い錆の匂いと、朽ちた布の匂いが混じっている。


「……牢、なのか?」


 ホロの声は、自分でも分かるほど掠れていた。


 ルシアは無言で通路を見つめる。瞳がかすかに揺れていた。


「領主邸の地下に、こんな場所が……」


 ミラの声にも、わずかな硬さが混じる。


 鉄格子の奥には、何かが散乱していた。


 布だったもの。


 壊れた器。


 腐った木片。


 形を失った寝具のようなもの。


 人がいた痕跡。


 だが、今はもう誰もいない。


 それが、かえって恐ろしかった。


 エリオは鉄格子の一つに近づき、扉を確認する。


「ここは開いている」


 格子扉はわずかにずれており、閉じ切っていなかった。長い時間の中で歪んだのか、それとも誰かが開けたままにしたのか。


 ホロは無意識に一歩近づく。


「ホロ、待って」


 ルシアがすぐに声をかけた。


「むやみに触れない方がいいわ」


「……少し見るだけだよ」


 ホロはそう答え、慎重に牢の中へ入った。


 床には埃が積もり、足を踏み入れると小さく舞い上がった。ランタンの光が届く範囲に、ぼろぼろになった布が落ちている。


 かつて毛布だったものか。


 あるいは、衣服だったものか。


 形はもう分からない。


 ホロは膝をつき、そっと布の端を持ち上げた。


 その下に、硬いものがあった。


 最初は、石かと思った。


 だが違った。


 白く細い枝のようなものが、布の下から覗いていた。


 最初は、乾いた木片かと思った。


 けれど、その先に見えた丸みを帯びた形が、ホロの思考を凍らせる。


 人の骨。


「うわっ……!」


 ホロは反射的に後ろへ下がり、尻もちをついた。


「ホロ!」


 ルシアがすぐに駆け寄る。


 ミラもランタンを掲げ、エリオが牢の入口に立った。


 光が布の下を照らす。


 そこには、白く乾いた骨があった。


 小さな骨。


 細い骨。


 人が、ここにいた証。


「……人骨か」


 エリオの声が低く響いた。


 その一言で、空気が凍りつく。


 ホロは息をすることすら忘れたように、目の前の骨を見つめていた。


 この場所に、誰かが閉じ込められていた。


 そして、そのまま――。


「ホロ、大丈夫?」


 ルシアが膝をつき、ホロの肩に手を添える。


「……あ、ああ……」


 ホロは答えようとしたが、声がうまく出なかった。手にはまだ、ぼろ布の端が引っかかっている。


 ルシアはホロを支えようとして、その手元へ手を伸ばした。


 ホロの指に絡んでいた朽ちた布。


 それに、ルシアの指先がそっと触れる。


 その瞬間だった。


 ルシアの視界が、白く弾けた。


「……っ!」


 音が消える。


 地下の冷たさも、ランタンの揺れる光も、ホロの声も遠ざかっていく。


「ルシア!」


 誰かが自分の名を呼んだ気がした。


 けれど、その声は水の底から聞こえるように遠い。


 白い光が、視界いっぱいに広がる。


 その中に、何かが浮かび上がった。


 泣き叫ぶ声。


 閉ざされた鉄格子。


 暗い地下に差し込む、かすかな光。


 小さな手が、誰かを求めるように宙を掴む。


 そして――。


 白い花弁が舞う、遠い過去の光景が、ルシアの意識へ流れ込んできた。

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