第59話 扉へ
翌朝、領主邸の北西の庭には、薄い朝霧が残っていた。
草葉には夜露が宿り、ところどころで淡い光を弾いている。けれど、その美しさとは裏腹に、北西の庭の空気はどこか重かった。
湿った土の匂い。
草の根に染み込んだ水気。
そして、生垣の向こうにある、決して開かれない裏庭の気配。
ホロは道具袋を肩にかけ、昨日までに掘り進めていた溝の前に立った。
北西の庭の外周に沿うように、まっすぐ掘られた細い穴。排水の流れを確認するために、ホロが何日もかけて少しずつ掘ったものだ。
その突き当たりには、土の下から現れた石積みの壁があった。
古い石を幾重にも重ねた造りで、表面には水の染みた跡が黒く残っている。穴の上には生垣が覆いかぶさるように茂り、その向こうには北西の裏庭がある。
昨日までは、ここに近づこうとするたびに兵士の視線があった。
けれど――。
「……本当に、いないな」
ホロは周囲を見回し、小さく呟いた。
いつもなら少し離れた位置に立っていた監視の兵が、今日は見当たらない。庭の入り口にも、石積みの近くにも、ホロとルシアの動きを見張る視線はなかった。
ガルヴァンの言葉通りだった。
「ガルヴァンは、約束を守ったということね」
隣に立つルシアが、静かに言った。
薄い黄金色の長い髪が朝の風に揺れ、淡い光を受けて柔らかく輝いている。だが、その表情は穏やかとは言いきれなかった。
監視が外れた。
それは好機であると同時に、何かが動き出した証でもある。
「……うん。だからこそ、今日中にできるところまで進めたい」
ホロは道具袋を下ろし、中から小さな槌と鉄の楔を取り出した。
石積みの壁。
その奥に、詰まりの原因があるはずだ。
ホロは膝をつき、石の継ぎ目に指を添えた。冷たく湿った石肌が、指先にじっとりとした感触を残す。
「崩しすぎると危ない。少しずつ外していくよ」
「ええ。無理はしないで」
ルシアの声には、心配が滲んでいた。
ホロは小さく頷き、石の隙間へ楔を差し込む。槌で慎重に叩くと、乾いた音ではなく、鈍く湿った音が返ってきた。
中まで水が回っている。
ひとつ、またひとつ。
ホロは石を外していく。
土に埋もれていた石積みは思った以上に古く、手を入れるたびに細かな砂や泥が崩れ落ちた。
ルシアは傍らで布を広げ、外した石を順に並べていく。
あとで戻せるように。
見た目を大きく崩さないように。
ここでの作業は、ただ壊せばいいわけではない。庭師として、構造を理解しながら進めなければならなかった。
やがて、石の奥から冷たい空気が漏れた。
「……開いた」
ホロが小さく呟く。
石積みの奥には、暗い空洞があった。思ったよりも広い。少なくとも、石と石の隙間という程度ではない。
奥からは、ぽたり、ぽたりと水の落ちる音が聞こえていた。
ホロは身を乗り出し、慎重に中を覗き込む。ルシアも隣に膝をついた。
「……これは」
空洞の中には、水が溜まっていた。
石積みから染み出した水が、本来なら下の排水溝へ落ち、領主邸の外へ流れるはずだったのだろう。
だが、底の方にある排水口は、黒く湿った土で完全に塞がっていた。水は行き場を失い、空洞の中に溜まり続けていた。
その水が、石積みの隙間や周囲の土へ染み出し、北側の庭へ流れ込んでいたのだ。
「……やっぱり、ここが原因だ」
ホロの声には、確信があった。
排水溝が詰まっている。だから水が逃げず、庭の土を内側から腐らせるように湿らせていた。
ルシアは空洞の奥を見つめ、眉を寄せる。
「でも……かなり深いわ」
ホロも頷いた。
空洞に溜まった水は、底が見えないほど濁っていた。棒を差し込んで深さを測ると、先端はなかなか底に届かない。
ホロの背丈より深い。
「排水溝の土を取るには、潜るしかないな」
そう言った瞬間、ルシアの表情が強張った。
「だめよ」
即座の言葉だった。
「水は濁っているし、底も見えない。狭い空洞の中で何かあれば、すぐには助けられないわ」
「分かってる。でも、このままじゃ水は抜けない」
「他の方法を探しましょう」
ルシアの声は静かだったが、そこには強い拒絶があった。
ホロは黙って空洞を見つめる。
ただ潜って手で土を掻き出すのは危険すぎる。水中で排水溝に腕を突っ込めば、土が崩れて手が抜けなくなる可能性もある。
けれど、詰まりを動かせれば水は流れる。
必要なのは、土を直接掘ることではない。詰まった部分に引っ掛けて、まとめて崩すことだ。
ホロは道具袋の中を探り、紐と小さな網を取り出した。花屋で根や土をふるい分けるために使っている、丈夫な麻糸の網だ。
「これを使う」
ルシアが目を向ける。
「網?」
「うん。紐を結んで、水の中で排水溝の詰まりに引っ掛ける。うまく土に食い込ませて、上から引けば……詰まってる土ごと崩せるかもしれない」
ホロは空洞の底を見ながら続けた。
「一回で無理でも、何度かやれば流れができるはずだ。少しでも水が動けば、あとは水圧で残りの土も押し流される」
ルシアは黙って聞いていた。
理屈は分かる。けれど、それでも水に潜る必要があることに変わりはない。
「……それでも、あなたが潜るのね」
「僕がやるのが一番いい。排水の位置も、土の感触も、僕が一番分かってる」
ホロは穏やかに言った。
「大丈夫。無理はしない。息が苦しくなる前に上がる」
ルシアは何か言おうとして、唇を結んだ。
心配だ。
止めたい。
けれど、ホロがただ無謀に言っているわけではないことも分かっていた。
ホロは庭師として、この場所の水の流れを見ている。水を抜くために何が必要なのか、誰よりも理解している。
「……本当に、危ないと思ったらすぐに上がって」
「うん。約束する」
ホロは網に紐を結び、何度も強く引いて確かめた。
結び目はほどけない。
網の縁も、土に食い込める程度には硬い。
準備を終えると、ホロは上着を脱ぎ、袖をまくった。
冷たい水の匂いが、空洞の奥から漂ってくる。
その時、背後から足音がした。
「作業は進んでいるか」
振り返ると、エリオが立っていた。
いつも通り落ち着いた表情だが、その瞳はすぐに石積みの奥と、そこに溜まる水を見抜いていた。
「かなり時間がかかりそうだな」
「うん。日中は排水の作業で手一杯だと思う」
ホロは正直に答えた。
「裏庭の扉までは、とても見に行けない」
エリオは短く沈黙した。
石積みの奥。
生垣の向こう。
裏庭へ続く扉。
ここまで来ても、まだ届かない。だが、今は排水を終わらせなければならない。
庭師としての仕事を途中で放り出すわけにはいかなかった。
やがて、エリオが静かに言う。
「なら、夜に動いてみるか」
ルシアが顔を上げた。
「エリオ?」
「日中は作業に集中する。夜になれば兵の動きも変わる。扉に近づくなら、その方が可能性はある」
「でも、ホロは日中ずっと作業をするのよ。しかも、水に潜るのでしょう?」
ルシアの声が、わずかに強くなる。
「その後で、夜にも危険な場所へ行かせるなんて……私は賛成できません」
ホロはルシアを見る。
「僕は構わないよ」
「ホロ」
「今日を逃したら、また状況が変わるかもしれない。ガルヴァンがどこまで手を回せるかも分からないし、アルフォンスに気づかれる可能性もある」
ルシアは言葉に詰まる。
分かっている。
今が機会なのだ。
けれど、それでも不安だった。
ホロは、決して弱い人ではない。けれど、弱音を吐かないからこそ、無理をしてしまう。
疲れていても笑う。
怖くても進もうとする。
自分のことより、誰かのために動いてしまう。
だからこそ、怖い。
もしホロに何かあったら。
もし、自分がそれを止められなかったら。
その時、自分を許せるだろうか。
ルシアは胸の奥で、小さく息を呑む。
いつからだろう。
ホロを守りたいという思いが、ただの誓いではなくなったのは。
彼の笑顔を見ると安心する。
彼が危ない場所へ向かうと、胸が痛む。
彼の帰りを待つ時間が、こんなにも苦しい。
その感情の名前を、ルシアはもう知っていた。
恋だ。
ホロは、かけがえのない人になっていた。
エリオは、そんな妹の沈黙を静かに見つめていた。
「ルシア」
低く、けれど穏やかな声だった。
「ホロはそんなに弱くない。お前も分かっているだろう」
ルシアは目を伏せる。
「……分かっています」
分かっている。
ホロは簡単に折れる人ではない。すぐに弱音を吐く人でもない。
でも、だからこそ。
「それでも……心配なの」
小さく零れた言葉に、ホロが少しだけ目を見開く。
ルシアはすぐに表情を整えた。
「……けれど、止めるだけでは進めないことも分かってる」
そして、ホロを見た。
「危ないと思ったら、必ず引き返して。無理をしないで」
「うん。約束する」
ホロは真っ直ぐに頷いた。
エリオはその様子を見届けると、静かに言った。
「では決まりだ。日中は排水を終わらせる。夜になったら、扉へ近づく」
その言葉で、今日の方針は決まった。
ホロは改めて空洞の水を見下ろす。
まずは、この水を抜く。
裏庭へ進むのは、その後だ。
ホロは深く息を吸い、冷たい水の中へ足を入れた。
水は思ったよりも冷たかった。足首から膝、腰へと水が上がるたびに、体温が奪われていく。
「……冷たいな」
「本当に無理はしないで」
ルシアがすぐ傍で紐を握る。
エリオも反対側に立ち、引き上げる準備をしていた。
ホロは網を片手に持ち、もう片方の手で石の縁を掴む。
「一回目、行くよ」
そう言って、水中へ潜った。
濁った水が視界を奪う。目を開けても、ほとんど何も見えない。
手探りで壁をたどり、底へ向かう。水圧が耳を押し、胸が苦しくなる。
足元には柔らかく崩れた土が積もっていた。
ホロは手を伸ばし、排水溝らしき縁を探す。
硬い石の感触。
その奥に、ぬるりとした泥の塊。
ここだ。
だが、網をうまく引っ掛ける前に息が苦しくなった。
ホロはすぐに水面へ戻る。
「ぷはっ……!」
「ホロ!」
ルシアが肩を支える。
「大丈夫。場所は分かった」
息を整えながら、ホロは頷いた。
「もう一回」
二度目。
今度は迷わず底へ向かう。排水溝の縁に網を押し込み、土へ食い込ませる。
だが、引こうとした瞬間、網が滑った。
泥が崩れ、水が濁り、視界がさらに悪くなる。
ホロは位置感覚がずれ、水面へ上がった。
「だめだった……でも、少し崩れた」
「もう十分よ。一度休んで」
「あと一回だけ」
「ホロ」
「あと一回で、いける気がする」
ホロの声には、確信があった。
ルシアは強く言い返せなかった。その代わり、紐を握る手に力を込める。
「……本当に、これで一度上がって」
「うん」
三度目。
ホロは大きく息を吸い込んだ。
そして、水の中へ沈む。
濁った暗闇。
冷たい水。
耳の奥で響く、自分の鼓動。
手は迷わなかった。
排水溝の縁。
崩れた泥の奥。
そこに網を押し込み、さらに奥へ噛ませる。
指先に、土が重く絡みつく感触があった。
――引っ掛かった。
ホロはすぐさま水面へ浮上し、石の縁を掴んで地面へ這い上がった。
その様子を確認したエリオが、紐を握り直す。
「引くぞ」
「ええ!」
ルシアも即座に力を込め、二人は同時に紐を引いた。
重い。
泥が抵抗している。網が千切れそうなほど張り詰める。
ホロも濡れた手で紐を掴み、歯を食いしばって力を込めた。
三人の力が一本の紐に集まり、張り詰めた麻紐が軋む。
次の瞬間。
ごぼり、と鈍い音がして詰まっていた土が、ごっそりと動いた。
水が震える。
底の方で、押し殺されていた流れが目を覚ますように渦を巻いた。
ホロは声を出す。
「紐を離さないで! 流れに持っていかれる!」
ルシアとエリオがさらに紐を引く。
網に絡みついた黒い土の塊が、水面から引きずり出された。
その直後だった。
空洞の水が、轟音を立てて動き始めた。
溜まり続けていた水が、排水溝へ吸い込まれていく。渦が生まれ、泥が流れ、奥で詰まっていた残りの土も次々と崩れていった。
石積みの奥から、低い水音が響く。
ごうごうと、流れる音。
まるで長い間塞がれていた息が、ようやく吐き出されたかのようだった。
「……流れた」
ホロは濡れた髪を額に貼り付かせたまま、空洞の中を見つめると、水位が、目に見えて下がっていく。
領主邸の外壁の向こうから、大きな音が聞こえた。岩の隙間から大量の水が吐き出され、外の川へ落ちていく音だ。
ルシアが息を呑む。
エリオも目を細め、庭の外壁の方を見た。
滞っていた水が、ようやく本来の道へ戻っていく。
ホロは泥と水にまみれたまま、思わず声を上げた。
「……やった!」
その声には、子どものような喜びがあった。
ルシアはほっとしたように目を伏せ、すぐに布を手に取った。
「喜ぶのはいいけれど、まず体を拭いて。冷えてしまうわ」
「うん、ごめん」
ホロが笑うと、ルシアは少しだけ困った顔をした。
怒りたい。
でも、無事だったことに安心してしまう。
そんな表情だった。
エリオは空洞の奥を改めて確認する。
「これで排水は戻ったようだな」
「ああ。しばらく様子を見る必要はあるけど、原因は取れたと思う」
ホロは息を整えながら答えた。
水が抜けた空洞の底には、削られた土と石が見えている。
自然に水が溜まり、長い時間をかけて土を削ったことで生まれた空間だった。
人工的な通路ではない。
裏庭へ続く穴でもない。
ただ、水が逃げ場を失った結果できた空洞。
ホロは生垣の向こうへ視線を上げた。
「ここから裏庭に入れるわけじゃないな」
エリオが頷く。
「ああ。ここはあくまで排水のための場所だ。目的の場所とは違う」
ルシアも静かに続ける。
「なら、やはり本命は……」
ホロは生垣の向こうを見る。
そこにあるはずの扉。
北西の裏庭へ続く、閉ざされた入口。
「地上にある、あの扉だね」
夕方が近づいていた。
水が抜けたことで、北西の庭の湿り気は少しずつ落ち着き始めている。掘った溝の周囲には泥が残り、石積みの前には外した石が丁寧に並べられていた。
排水の問題は解決した。
それは確かな成果だった。
けれど、秘密そのものにはまだ触れていない。
エリオは空を見上げる。
「日が落ちたら動く」
短く言った。
「兵の動きはこちらで見る。扉の正面は避けろ。左側の死角を使う」
ホロは頷く。
ルシアはまだ不安そうだったが、それ以上は止めなかった。
夜になり、北西の庭は昼間とはまるで違う顔を見せていた。
月明かりが生垣の輪郭を淡く照らし、湿った土の匂いが冷えた空気の中に漂っている。昼に水を抜いた石積みのあたりにはまだ泥の跡が残り、掘り返された土だけが、ここで何かが行われたことを静かに物語っていた。
だが、兵の姿はない。
少なくとも、ホロとルシアを監視していた者たちは、もうこの場にはいなかった。
ホロ、ルシア、エリオの三人は、息を潜めながら庭の影へ身を寄せる。遠く、裏庭の方にはかすかな足音があった。アルフォンス直属の兵だ。やはり、あちらの警戒は緩んでいない。
エリオが小さく手で合図する。
「正面からは無理だ。左へ回る」
その声は、ほとんど空気に溶けるほど小さかった。
三人は生垣の影を辿りながら、ゆっくりと移動を始める。枝が服をかすめる音すら、今は大きく感じられた。
ルシアはホロの少し後ろを、いつでも手を伸ばせる距離で歩いていた。
昼間、水に潜ったホロの体がまだ重いことは、見ていれば分かる。
足取りはしっかりしているように見えても、冷たい水に奪われた体力は、そう簡単に戻るものではない。
それでも、ホロは止まらなかった。
その背中を見つめながら、ルシアは胸の奥で祈るように思う。
どうか、無事に。
どうか、この先で何が待っていても、彼を失わずに済みますように。
やがて、エリオが立ち止まった。
そこは、扉の正面から見て左側。昼間、ほんの一瞬だけ死角が生まれた場所だった。夜の闇がその空白をわずかに広げ、兵の視線から三人の姿を隠してくれている。
エリオは目を細め、兵の足音を聞き分けながらタイミングを測った。
ひとつ。
ふたつ。
足音が遠ざかる。
そして――。
「今だ」
三人は、月明かりの下を静かに滑るように進んだ。




