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堕天の花冠  作者: 蒼月あおい


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第58話 商人の微笑み

 翌朝、《ミモザの庭》にはまだ開店前の静かな空気が流れていた。


 朝の光はやわらかく、店先に並べられた花々の花弁に淡い金色を落としている。水を替えたばかりの花瓶からは、青い香りが立ちのぼり、通りにはまだ人通りも少ない。


 ホロは店先で道具を整えながら、小さく息を吐いた。


 北西の庭の件が頭から離れない。


 石積みの先。

 生垣の向こう。

 そして、領主が近づくなと言った場所。


 見えているのに届かない、その距離がひどくもどかしかった。


 そんな時だった。


「……あの、ホロさん?」


 控えめな声に振り向くと、十歳くらいの少年が立っていた。質素だがきちんとした服装で、胸元には見覚えのある商会の印がある。


 ガルヴァン商会の使いだった。


「はい、僕ですけど」


 少年はほっとしたように頷き、丁寧に一通の封書を差し出した。


「旦那様からです。必ず、ご本人にって」


「旦那様……?」


「ガルヴァン様です」


 ホロは封書を受け取り、わずかに眉をひそめた。


 封には確かに、ガルヴァン商会の印が押されていた。


「ありがとう」


 礼を言うと、少年は深く頭を下げ、すぐに駆けていった。


 ホロはその場で封を開く。


 中の紙には、整った文字が並んでいた。


『昨日の件で、少し話したいことがあります。

 本日、昼過ぎに私の商会まで来ていただけますか。

 ただし――

 ホロ殿、お一人で。

 他の者を伴う場合、この話はなかったことにしてください』


「……一人で、か」


 その一文だけが、妙に重く感じられた。


「何かあったの?」


 背後からルシアの声がする。


 振り返ると、朝の支度を終えた彼女が静かにこちらを見ていた。


 ホロは手紙を差し出す。


 ルシアは目を通し、読み終えたあと、わずかに表情を曇らせた。


「……一人だけ、というのが気になります」


「うん」


「正直、あまり良い予感はしません」


 その言葉に、ホロは苦笑した。


「そんな顔しないで。もし本当に変な真似をするなら、こんな回りくどいことしないと思うよ」


「それは……そうかもしれませんけれど」


 ルシアは視線を伏せる。


 それでも、胸騒ぎが消えないのだろう。


 ホロは少しだけ優しく笑った。


「大丈夫。ちゃんと戻るよ。ただ話があるって、それだけだと思う」


 ルシアはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……胸騒ぎはします」


 その声音は静かで、どこか遠い。


「けれど、止めるだけでは前へ進めないのでしょうね」


 ホロは何も言わず、彼女を見る。


 ルシアはゆっくりと顔を上げた。


「あなたが行くと決めたのなら、私は信じて待つわ」


 その言葉は、強くもあり、どこか寂しくもあった。


 ホロは小さく頷く。


「ありがとう」


 少しだけ沈黙が流れる。


 花の香りと、朝の光だけが静かにそこにあった。


「……すぐ戻るよ」


「ええ。ちゃんと、帰ってきて」


 その言葉を背に、ホロは店を出た。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、きっと少し迷ってしまう気がしたからだ。


 けれど、背中に感じるルシアの視線だけは、最後まで消えなかった。


 その温かさと不安を、胸の奥に残したまま――。


 街の中心へ向かうにつれて、人の流れは次第に増えていった。


 露店の呼び声。荷車の軋む音。商人たちの値段交渉。


 朝の静けさを抜けた先には、いつもの活気ある街の顔が広がっている。


 ホロは人波を縫うように歩きながら、胸の内に小さな緊張を抱えていた。


 ガルヴァン。


 穏やかな物腰の奥に、何か底知れないものを感じる男。


 敵なのか、味方なのか。


 それすらまだ、はっきりとは分からない。


 ただ一つ確かなのは、あの男が北西の庭の秘密に強い関心を持っているということだった。


(……本当に、何を話すつもりなんだろう)


 考えても答えは出ない。


 やがて、大通りの一角に、その建物は姿を現した。


 ガルヴァン商会。


 石造りの堂々とした外壁に、磨かれた真鍮の看板。


 二階建てどころではない。周囲の建物より頭ひとつ抜けたその商会は、まるで街の中心そのもののような存在感を放っていた。


 人の出入りも絶えない。


 荷を運ぶ者、帳簿を抱えた使用人、商談に来たらしい商人たち。


 花屋とはまるで違う世界だった。


「……すごいな」


 思わず小さく呟く。


 ホロが店を切り盛りする日常とは、あまりにも遠い場所に思えた。


 ほんの少しだけ、場違いな気持ちになる。


 だが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。


 息を整え、商会の前へ足を進めた、その時だった。


「ホロさん……ですか?」


 低く落ち着いた声がかかる。


 振り向くと、三十代ほどの男が立っていた。


 きちんと仕立てられた服に、無駄のない立ち姿。商会の人間だとすぐに分かる。


「はい。ガルヴァンさんに呼ばれて来ました」


 そう答えると、男は丁寧に一礼した。


「お待ちしておりました。ご案内いたします」


 まるで最初から分かっていたかのような対応に、ホロは少しだけ背筋が伸びる。


「……お願いします」


 男は無駄な会話をせず、そのまま歩き出した。


 ホロは後を追う。


 商会の中へ足を踏み入れた瞬間、外から見た以上の熱気が押し寄せてきた。


 広い。


 まず、その一言だった。


 高い天井。広い石床。


 左右にはいくつもの机が並び、人々が忙しなく動いている。


 帳簿を確認する者。

 品の数を確かめる者。

 商人同士が小声で何かを交渉している。


 誰もが忙しく、誰もが何かを測っている。


 この場所では、言葉一つにも値段があるように思えた。


(……ここじゃ、花の値段だけ考えてるわけにはいかないんだろうな)


 ホロはそんなことを思う。


 案内の男は迷いなく奥へ進んでいく。


 一階、二階、さらに上へ。


 階を上がるごとに、人の気配は少なくなっていった。


 下の喧騒が、まるで別の世界の音のように遠ざかっていく。


 最上階。


 そこには、静けさだけがあった。


 厚い絨毯が足音を吸い込み、廊下には余計な装飾もない。


 むしろその簡素さが、この場所の重みを感じさせた。


 案内役の男は、一つの大きな扉の前で立ち止まる。


「こちらです」


 深く一礼し、扉を三度ノックする。


 間を置かず、中から落ち着いた声が返ってきた。


「どうぞ」


 男は扉越しに告げる。


「ガルヴァン様、ホロ様をお連れしました」


 少しの沈黙。


 そして――


「入ってもらってください」


 ガルヴァンの声だった。


 案内役の男は扉を開き、ホロへ向き直る。


「どうぞ」


 その言葉に、ホロは小さく息を吸った。


 ここから先は、未知の世界。


 そんな予感があった。


「……失礼します」


 そう言って、ホロは静かに扉の向こうへ足を踏み入れた。


 執務室の中は、静かだった。


 広い部屋だったが、無駄に豪奢というわけではない。


 磨かれた木の机、質の良い革張りの椅子、壁際に整然と並ぶ書棚。


 窓から差し込む午後の光が、落ち着いた空気をより際立たせていた。


 高価なものは多いのだろう。


 けれど、それを見せびらかすような嫌味はない。


 むしろ、この部屋そのものが――


 この男の性格を表しているように思えた。


 中央には応接用の低いテーブルと、向かい合う二つのソファー。


 その奥、執務机に腰掛けていたガルヴァンが、顔を上げた。


「よく来てくれました、ホロ殿」


 穏やかな笑み。


 だが、その目は相変わらず、どこか人の奥を覗き込むようだった。


「いえ……こちらこそ、お呼びいただいて」


 ホロが頭を下げると、ガルヴァンはゆっくり立ち上がる。


「そんなに固くならなくていい。今日は少し、腹を割って話したくてね」


 そう言いながら、部屋の中央にあるソファーへ手を向けた。


「どうぞ、こちらへ」


「……失礼します」


 ホロは促されるまま腰を下ろす。


 座り心地の良いソファーだったが、その柔らかさが逆に落ち着かなかった。


 ガルヴァンも向かいへ座る。


 しばし、静かな間が流れる。


 その空気を破るように、扉が控えめにノックされた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、執事のローレンだった。


 年齢の読めない、整った立ち姿。


 黒を基調とした服装は無駄がなく、その動きにも一切の迷いがない。


 手には銀の盆。


 その上には、湯気の立つ茶器が二つ。


 ローレンは何も言わず、静かにテーブルへそれを置いた。


 香りの良い茶葉の匂いが、ふわりと広がる。


 ホロの前。

 そして、ガルヴァンの前。


 すべての動作があまりにも自然で、音すら立てない。


 最後にローレンは扉の前で一礼した。


 それだけだった。


 余計な言葉も、視線もない。


 ただそこにいるだけで、この部屋の空気をさらに引き締めるような存在だった。


 そして、そのまま静かに部屋を出ていく。


 扉が閉まる音が、小さく響いた。


 それを見送りながら、ホロはわずかに背筋を正す。


(……この人も、油断できない)


 ただの執事ではない。


 そんな直感があった。


 ガルヴァンは小さく笑う。


「彼は無口でしょう。だが、非常に優秀でしてね。私にとっては、何より信頼できる男です」


「……そう、みたいですね」


 ホロが素直に答えると、ガルヴァンは満足そうに頷いた。


「さて」


 その一言で、空気が変わる。


 先ほどまでの穏やかな応接の空気ではない。


 ここからが、本題だった。


 ガルヴァンはカップを手に取り、静かに言った。


「まずは、お茶を。緊張していては、話せることも話せませんから」


 ホロもそれに倣い、カップを持つ。


 温かい。


 ほんの少しだけ、張っていた気持ちが和らぐ。


 だが、それでも完全には気を抜けない。


 ガルヴァンは一口だけ口をつけ、カップを置いた。


「では――今回、あなたをお呼びした理由をお話ししましょう」


 その声音は穏やかだった。


 けれど、そこには確かな重みがあった。


 ホロは自然と背筋を伸ばす。


 ガルヴァンは指を軽く組み、まっすぐにこちらを見た。


「確認したいことが、三つあります」


 三つ。


 その言葉に、ホロの喉がわずかに鳴る。


「一つ目。私がなぜ、あなたたちに手を貸そうとしているのか」


 静かに。


「二つ目。《ミモザの庭》によく訪れる、あの老婦人――

 あなたは、あの方が何者か知っているのか」


 その言葉に、ホロの指先がわずかに止まる。


 そして。


「三つ目」


 ガルヴァンの目が、少しだけ鋭くなった。


「なぜ、あなたたちは北西の庭の奥――

 あの裏庭を、そこまで気にしているのか」


 部屋の空気が、静かに張り詰めた。


 ホロは無意識に、カップを置いていた。


 ここから先は、ただの雑談ではない。


 言葉一つが、何かを変える。


 そんな気がしていた。


 しばし、静寂が落ちた。


 窓の外では、街の喧騒が遠くかすかに聞こえている。


 だが、この部屋の中だけは、まるで別の場所のように静かだった。


 ホロは一度だけ呼吸を整えた。


 ガルヴァンの言葉は穏やかだった。


 けれど、その奥には明確な探りがある。


 適当に答えれば見抜かれる。


 だが、すべてを正直に話すわけにもいかない。


 この男は、決してただの親切な商人ではない。


 ホロはそう理解していた。


 ガルヴァンは急かさない。


 ただ静かに、返答を待っている。


 先に口を開いたのは、ホロだった。


「……一つ目のことですけど」


 ガルヴァンがわずかに頷く。


「なぜ手を貸してくれるのか、って話なら……北側の排水のこと、ですよね」


「ええ」


 ガルヴァンは穏やかに答える。


「北西の庭だけの話ではありません。あの一帯の水はけが悪くなれば、領主邸の庭が崩れ、その崩れた土砂が街に流れ込む、道も建物も……そうなれば街全体に影響が出る。住民にも、商売にも」


 指先でカップの縁をなぞりながら、続ける。


「私は商人です。損をする未来を、黙って見ている趣味はない」


 その言葉には、いかにも彼らしい現実感があった。


「北側の流れが止まれば、物流も滞る。人が離れれば、街そのものが弱る。そうなれば、私にとっても不利益だ」


 合理的で、分かりやすい理由。


 ホロは小さく頷いた。


「……それは、納得できます」


 完全に信用したわけではない。


 けれど、少なくとも嘘ではない気がした。


 ガルヴァンは小さく笑う。


「信用されすぎても困りますが、疑われすぎても寂しいものです」


「……そのへんは、難しいですね」


 思わずそう返すと、ガルヴァンは楽しそうに目を細めた。


「まったくです」


 少しだけ空気が和らぐ。


 だが、それも束の間だった。


「では、二つ目」


 ガルヴァンが静かに言う。


「《ミモザの庭》によく来る、あの老婦人のことです」


 ホロはわずかに姿勢を正した。


「正直に言うと……名前くらいしか知りません」


 ホロは率直に答えた。


「昔から祖母のことを知っていたみたいで、たまに店に来てくれるんです。お茶を飲んだり、花を買ってくれたり」


 少し考えてから、続ける。


「すごく上品な人です。優しくて、落ち着いていて……でも、時々すごく遠い場所を見てるみたいな時がある」


 言葉を探しながら話す。


「何かを全部知ってるような……そんな感じがする時があります。名前はエレノアさん、それしか知らないんです」


 そこまで言った時だった。


 ガルヴァンの眉が、ほんのわずかに動いた。


 ほんの一瞬。


 気づかない者なら見逃すほどの小さな変化。


 だが、確かに反応した。


(……?)


 ホロはそれを見逃さなかった。


 ガルヴァンはすぐに元の表情へ戻る。


「エレノア、ですか」


 その名を、ゆっくりと反芻する。


 王都。

 公爵家。

 その頂にいた女。

 かつて一度だけ遠くから見た、あの人物。


(……まさか)


 ガルヴァンの頭の中で、いくつもの線が一気に繋がる。


 グレイスの姓。

 花屋。

 老婦人。

 そして、ホロという存在。


(……そういうことか)


 もし、あの老婦人が本当にあのエレノアなら。


 ならば、ホロの背後には――


 王家に連なる血筋と、貴族社会の後ろ盾がある。


 今さら王家の人間として表に立たせることはできない。


 だが。


 領主としてなら。


 十分に、あり得る。


(なるほど……これは、思っていた以上に面白い)


 ガルヴァンは、その考えを一切表に出さなかった。


 ただ静かに、お茶を一口飲む。


「……そうですか」


 それだけを言う。


 ホロは少しだけ不思議に思ったが、深くは追わなかった。


 そして、最後の問いが残る。


 三つ目。


 なぜ、北西の裏庭をそこまで気にしているのか。


 ガルヴァンは何も言わない。


 ただ、次の言葉を待っている。


 ホロは少しだけ視線を落とした。


 これは、一番答えにくい。


 全部を話すことはできない。


 ルシアの違和感。

 領主の「近づくな」という言葉。

 エレノアの昔話。

 マトスの噂。


 それらが少しずつ、一本の線になり始めている。


 けれど、それをそのまま言うには、まだ確証がなさすぎた。


「……正直、うまく説明できません」


 ホロは静かに言った。


「最初は、本当に些細なことだったんです」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「ルシアが、あの場所に違和感があるって言ったこと」


「領主様が、北西には近づくなって言ったこと」


「それから……昔話とか、噂とか」


 そこで少しだけ笑う。


「たぶん、好奇心って言えばそれまでなんですけど」


 首を横に振る。


「でも、それだけじゃない気がしてるんです」


 視線を上げる。


「気になったことが、少しずつ重なって……」


「まだ、はっきり理由を言えるほどじゃない。

 でも、あの先に何かある気がしてるんです」


 曖昧だった。


 けれど、それは嘘ではなかった。


 ガルヴァンはその言葉を、静かに聞いていた。


 やがて、ゆっくりと口元を緩める。


「……なるほど」


 その笑みは、穏やかだった。


 だが、その奥で何かが決まったことを、ホロは感じていた。


 ガルヴァンは、しばらく何も言わなかった。


 ただ静かに、ホロを見ていた。


 値踏みするように。


 けれど、それを露骨には見せない絶妙な距離で。


 ホロはその視線を受け止めながら、落ち着かない気持ちを隠せずにいた。


 自分は何か、決定的なことを言ってしまっただろうか。


 それとも、逆に何も伝わっていないのか。


 この男の沈黙は、答えを見えにくくする。


 やがて、ガルヴァンは静かに息を吐いた。


「……曖昧なようでいて、実にあなたらしい答えです」


「そう……ですか?」


「ええ」


 ガルヴァンは微笑む。


「あなたは、自分でも気づかないうちに、核心へ近づいている」


 その言葉に、ホロは少しだけ眉をひそめた。


「それは、褒められてるんでしょうか」


「半分は」


 即答だった。


「残り半分は、危うさです」


 ガルヴァンの目が、わずかに細くなる。


「勘の良い人間ほど、余計なものを見つけてしまう。

 そして、見つけたものによって立場を失うこともある」


 穏やかな声音だった。


 だが、その言葉は重かった。


 ホロは自然と、北西の庭を思い出していた。


 あの、生垣の向こう。


 誰も触れようとしない場所。


 領主が、近づくなと言った場所。


 あそこにあるものは、きっと“知ってはいけないもの”なのだ。


 それでも。


 それでも、自分は知りたいと思ってしまった。


 ガルヴァンは、その沈黙を見逃さなかった。


(やはり、この男は使える)


 政治に長けているわけではない。


 駆け引きに慣れているわけでもない。


 だが――だからこそいい。


 打算で動かない者ほど、時に最も深く核心へ踏み込む。


 しかも、ホロには今、

 誰にも与えられなかった立場がある。


 北西の庭に入れること。

 石積みの調査という、正当な理由。


 そこに手が届く。


 もし、この男の行動によってアルフォンスの隠し事が露見すれば。


 それは失脚へ繋がる。


(そして、その時)


 ガルヴァンの胸の奥で、静かな計算が動く。


 アルフォンスを引きずり下ろす。

 次の領主が必要になる。

 血筋。

 民からの信頼。

 後ろ盾。


 もしエレノアが本当にあの人物なら――


 ホロは、十分にその器になり得る。


(恩を売るには、これ以上ない相手だ)


 もちろん、それを今ここで語ることはない。


 すべては、まだ先の話。


 今はただ、この青年を守ることが、自分の利益に繋がる。


 それだけだ。


 ガルヴァンはカップを置き、静かに言った。


「率直に申し上げましょう」


 空気が、再び張り詰める。


「私は、あなたに無茶をしてほしくない」


 ホロは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……無茶?」


「ええ」


「下手に一人で動き回れば、アルフォンス様に疑われる可能性がある。

 最悪の場合、あなた自身が切り捨てられる」


 その言葉に、ホロの背筋がわずかに冷える。


 それは、十分にあり得る話だった。


「それでは困るのです」


 ガルヴァンは、あくまで穏やかに言う。


「街にとっても。私にとっても」


 そこに、嘘はない。


 だが、それがすべてでもないことを、ホロはなんとなく感じていた。


「だからこそ、私は力を貸す」


 その言葉は静かだった。


 押しつけではなく、宣言のようだった。


「あなたが進むなら、その道が途中で閉ざされないように」


「……それが、私の利益にもなる」


 商人らしい言い方だった。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 綺麗ごとだけを並べられるより、ずっと信じられる気がした。


 ホロはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。


「……ありがとうございます」


 その言葉に、ガルヴァンは小さく笑った。


「礼を言うのは、まだ早いですよ」


 そして、少しだけ身を乗り出す。


「ここからが、本題です」


 ガルヴァンは指を軽く組み、ほんのわずかに声の調子を変えた。


 それまでの探るような会話ではない。


 ここから先は、実際に動くための話だった。


「監視の件ですが」


 ホロは自然と姿勢を正した。


「昨日お話しした、衛兵長への手配――うまくいきました」


 その一言に、胸の奥が小さく跳ねる。


「……本当ですか?」


「ええ」


 ガルヴァンは静かに頷いた。


「明日から、あなたとルシアさんに付いている監視は外れます」


 その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。


 だが、その意味は決して軽くない。


 これまで、北西の庭で何をするにも兵士の視線があった。


 半歩すら自由に動けなかった。


 それが――消える。


 ホロは思わず息を呑む。


「ただし」


 ガルヴァンの声が、その熱を少しだけ冷ます。


「裏庭そのものの監視は変わりません」


 ホロは小さく頷いた。


 それは当然だろう。


 あの扉の向こうは、領主アルフォンス直属の管理だ。


 そこまで簡単に崩れるはずがない。


「つまり」


 ガルヴァンは続ける。


「石積みの先を調べる“余地”ができる、ということです」


「監視が完全になくなるわけではない。

 だが、少なくとも今までよりは動きやすくなる」


 それだけでも、大きい。


 ホロは静かにその重みを噛みしめた。


 ついに、前へ進める。


 北西の裏庭へ続く道が、ようやく現実のものになり始めていた。


「……どうして、そこまでしてくれるんですか」


 気づけば、そう口にしていた。


 ガルヴァンは少しだけ目を細める。


「先ほども申し上げたでしょう」


「街のため、ですか」


「ええ」


 それは表向きの答え。


 けれど、それだけではないことを、互いに分かっている。


 ガルヴァンは小さく笑った。


「それに――」


 言葉を選ぶように、一拍置く。


「あなたには、少し期待している」


「……僕に?」


「ええ」


 その視線は、まっすぐだった。


「花屋の青年が、こんな場所まで来ることは珍しい」


「けれど、時にそういう人間ほど、大きな流れを変える」


 ホロは返す言葉を持たなかった。


 そんなふうに自分を見たことは、一度もなかった。


 ただ、目の前のことを必死にやってきただけだ。


 花を売り、妹を守り、店を続けてきた。


 それだけだった。


 けれど。


 その積み重ねの先に、今ここがある。


 ガルヴァンはさらに続けた。


「下手に動かれて、あなたがアルフォンス様に切り捨てられるのは困る」


「それは、私の計画にも支障が出る」


 その言葉に、ホロは顔を上げる。


「計画……?」


 ガルヴァンはすぐに、柔らかく笑った。


「商人には、常に計画があるものですよ」


 それ以上は語らない。


 けれど、その笑みの奥にあるものは明らかだった。


 この男は、もっと大きなものを見ている。


 北西の庭の先だけではない。


 領主アルフォンス、その先にある何かまで。


 ホロにはまだ見えない場所を。


「……だからこそ」


 ガルヴァンは静かに言った。


「あなたには、焦らず動いてほしい」


「調べるべき時に、きちんと調べる」


「それが一番、確実です」


 ホロはしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷く。


「……分かりました」


 今はまだ、信じ切ることはできない。


 けれど。


 少なくとも、この男が本気で何かを動かそうとしていることだけは分かった。


 ならば、自分も進むしかない。


 北西の庭の、その先へ。


 ガルヴァンは満足そうに頷き、背もたれに身を預けた。


「結構」


 その一言が、この話の一区切りを告げるようだった。


 だが、ホロにはまだ一つだけ、どうしても聞きたいことが残っていた。


 しばしの沈黙のあと、ホロは静かに口を開いた。


「……ひとつ、聞いてもいいですか」


 ガルヴァンは紅茶のカップを手にしたまま、穏やかに視線を向ける。


「もちろん」


 ホロは少しだけ迷った。


 けれど、ここまで来て曖昧なままにはしたくなかった。


「北西の奥の裏庭――あの扉の先に、何があるのか」


 言葉を選びながら、まっすぐに見返す。


「……本当は、知っているんじゃないですか?」


 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。


 窓の外から聞こえる商会の喧騒だけが、妙に遠く感じる。


 ガルヴァンはすぐには答えなかった。


 ただ、静かにカップを置き、ほんの少しだけ口元を緩める。


「率直ですね」


「ごまかされるよりは、そっちの方がいいと思って」


 ホロの言葉に、ガルヴァンは小さく笑った。


 その笑みには、どこか試すような色が混じっていた。


 だが、次に返ってきた言葉は、意外なほど真っ直ぐだった。


「――知らないんですよ。本当に」


 ホロは思わず目を瞬かせた。


 ガルヴァンは続ける。


「私も、ずっと気になっていた」


「何度も探ろうとしました。裏庭の扉、その先に何があるのか。

 なぜアルフォンス様が、あそこまで徹底して隠すのか」


 声は静かだ。


 だが、その奥には長い年月の執着が滲んでいた。


「けれど、確証には届かなかった」


「噂はいくらでもある。昔の戦のこと、難民のこと、閉ざされた記録――」


 ガルヴァンはそこで一度言葉を切る。


「だが、どれも“噂”に過ぎない」


 ホロは黙って聞いていた。


「だからこそ」


 ガルヴァンの目が、わずかに鋭くなる。


「この機会を逃すわけにはいかない」


「あなたが見つけた石積み。

 排水の詰まり。

 そこに調査の理由が生まれた」


「偶然かもしれない。だが、こういう時こそ流れは動く」


 その言葉には、迷いがなかった。


 この男は、本当に知らない。


 だからこそ、ここまで執着している。


 ホロはそれを感じ取っていた。


「……じゃあ」


 自然と、次の言葉が漏れる。


「もし、その先で本当に何かが見つかったら」


「アルフォンス様は……」


 ガルヴァンは静かに頷いた。


「その何かにもよりますが……場合によっては失いますね。

 ですが、見つけたものが大したものではない可能性もあります」


 その言葉は、驚くほど淡々としていた。


「場合によっては、立場も、信用も。

 この街そのものの形も変わるでしょう」


 ホロは喉の奥が少しだけ重くなるのを感じた。


 領主の失脚。


 それは簡単な話ではない。


 街の人々の暮らしも、大きく揺れる。


「……そこまで、考えてるんですね」


 ガルヴァンは少しだけ目を細めた。


「商人は、先を見て動くものです」


 その声には、冷たさではなく、現実を見据えた重さがあった。


「だから私は、真実が必要なんです」


「憶測ではなく、確かなものが」


 ホロは、その言葉を胸の中で反芻する。


 自分はそこまで大きなことを考えていたわけじゃない。


 ただ、違和感があった。


 放っておけなかった。


 それだけだった。


 けれど、その先には確かに、大きな何かが繋がっている。


 もう、知らなかった頃には戻れない。


「……分かりました」


 ホロはゆっくりと言った。


「僕も、自分の目で確かめたい」


 ガルヴァンは静かに頷く。


「それで十分です」


 その瞬間だった。


 部屋の外で、かすかに足音が止まる気配がした。


 ほんの一瞬。


 だが、ガルヴァンの視線がわずかに扉へ向く。


 次いで、何事もなかったように表情を戻した。


「……良い時間ですね、今日はここまでにしましょう」


 その声音に、わずかな区切りを感じる。


 ホロも立ち上がった。


 話すべきことは、もう十分に話した。


 そして――これから動くべき時が来る。


 ガルヴァンは最後に静かに告げた。


「明日からです」


「北西の庭、監視は外れる」


「どうか、機を逃さないように」


 ホロはしっかりと頷いた。


「はい」


 その返事には、もう迷いはなかった。


 ホロが執務室を出ると、商会の廊下には昼下がりの静かな空気が流れていた。


 先ほどまで向かい合っていたガルヴァンの言葉が、まだ胸の奥に重く残っている。


 監視は外れる。


 明日から動ける。


 それは間違いなく前進だった。


 だが同時に、その一歩が引き返せない場所へ続いていることも、ホロには分かっていた。


 案内してくれた商会の男が、階段の手前で軽く頭を下げる。


「こちらからお帰りいただけます」


「ありがとうございました」


 ホロも小さく頭を下げ、ひとり階段を降りていく。


 石造りの階段を踏みしめるたび、思考が少しずつ現実へ戻ってくる。


(……ルシアに、ちゃんと話さないとな)


 あの手紙を見た時から、彼女はずっと不安そうだった。


 それでも止めなかった。


 信じて送り出してくれた。


 だからこそ、曖昧にはしたくなかった。


 商会を出ると、外の光が少し眩しい。


 市場の通りには人が行き交い、荷馬車の音や商人たちの呼び声が響いている。


 いつもの街。


 けれど、ホロにはどこか違って見えた。


 自分だけが、少し深い場所へ足を踏み入れてしまったような感覚。


 それでも、不思議と後悔はなかった。


「……さて」


 小さく息を吐く。


 まずは《ミモザの庭》へ戻ろう。


 そう思い、歩き出した時だった。


「ホロ」


 聞き慣れた声に、足が止まる。


 顔を上げると、目の前にはルシアが立っていた。


 淡い陽の中、白い髪がやわらかく揺れている。


 ホロは目を丸くした。


「ルシア? どうしてここに」


「……待っていたの」


 静かな声だった。


 けれど、その奥に押し込めた不安が滲んでいた。


「心配で……お店で待ってようと思ったのだけど……

 でも……落ち着かなくて」


 その言葉に、ホロは思わず苦笑する。


「そんなに心配だったの?」


「……ええ」


 即答だった。


 ルシアは少しだけ視線を伏せる。


「あなたは、自分では気付いていないけれど……時々、とても危ういもの」


「何かを守ろうとする時ほど、自分を後回しにしてしまうから」


 その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。


 ホロは少し困ったように頭を掻いた。


「そんなつもりはないんだけどな」


「本人は、たいていそう言うものよ」


 ルシアが、ようやく小さく微笑む。


 その表情を見て、ホロの肩の力が少し抜けた。


「大丈夫」


 今度は、ちゃんと目を見て言う。


「危ない話じゃなかった。

 むしろ、前に進めそうなんだ」


 ルシアの瞳が静かに揺れる。


「……本当に?」


「うん」


 ホロは頷いた。


「明日から、北西の庭の監視が外れる」


「ガルヴァンが手を回してくれた」


 一瞬、ルシアの表情が引き締まる。


「……それは、好都合すぎるわね」


「やっぱりそう思う?」


「ええ。でも――」


 ルシアは少しだけ空を見上げた。


「それでも、動くしかないのでしょうね」


 ホロも同じように空を見る。


 雲は薄く、穏やかな午後だった。


 けれど、その向こうには確かに嵐の気配がある。


「うん」


 静かに答える。


「たぶん、ここから先が本当の始まりなんだと思う」


 ルシアは何も言わず、ただ隣に立つ。


 その距離が、ひどく心強かった。


「……帰りましょう」


 やがて彼女がそう言った。


「ミナちゃんも、心配しているわ」


「ああ」


 二人は並んで歩き出す。


 石畳を踏む音が、静かに重なる。


 明日になれば、また動き出す。


 閉ざされていた北西の庭。


 その奥にある、誰も知らない扉。


 差し出された手を取るのか。


 それとも、その先に待つ罠に呑まれるのか。


 まだ答えはない。


 それでも――


 止まるつもりは、もうなかった。


 夕暮れへ向かう街の中を、二人の影が静かに伸びていった。


 《ミモザの庭》へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。


 西日に照らされた店先の花々が、やわらかな橙色をまとって静かに揺れている。


 扉を開けると、店の奥からぱたぱたと軽い足音が聞こえた。


「お兄ちゃん!」


 ミナだった。


 顔を見た瞬間、あからさまに安堵した表情を浮かべる。


「もう……遅いから心配したんだよ?」


「ごめん、少し長引いた」


 ホロが苦笑しながら答えると、ミナはじっと顔を覗き込む。


「変なことされなかった?」


「されてないよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 ようやく納得したのか、ミナは小さく息を吐いた。


「ならよかった」


 その言葉に、ホロの胸が少し温かくなる。


 ルシアはそのやり取りを静かに見守りながら、店の窓辺へ視線を向けた。


 夕暮れの光の中、《ミモザの庭》だけが、どこか日常のままそこにある。


 だからこそ、この場所を守りたいと思う。


 それは、きっとホロも同じだった。


「それで?」


 ミナが腕を組む。


「ちゃんと話してもらうからね」


「うん」


 ホロは頷き、三人で店の奥の小さなテーブルへ向かった。


 湯を沸かし、簡単な茶を淹れる。


 いつもの夜。


 けれど、その中にある空気は少しだけ違っていた。


 ホロは、ガルヴァンとの話を順を追って説明した。


 北西の庭の監視。


 明日から、それが外れること。


 石積みの先を調べるための機会が、ようやく訪れること。


 そして――


「……あと、もうひとつ」


 ホロは少しだけ言葉を選ぶ。


「ガルヴァンさんが、エレノアさんのことを聞いてきた」


 その言葉に、ミナがぴたりと動きを止めた。


「……エレノアさん?」


「ああ。花屋によく来る老婦人が何者なのか、知っているのかって」


 ミナは小さく眉をひそめる。


「……なんで?」


 その反応は自然だった。


 ホロも同じ疑問を抱いていた。


「俺もそう思った。

 名前しか知らないって答えたけど……あの時、ガルヴァンさんの顔が少し変わった気がした」


 ルシアも静かに視線を落とす。


「……私も、それは気になるわ」


 ミナがルシアを見る。


「ルシアさんも?」


「ええ」


 ルシアはゆっくり頷いた。


「北西の庭の話と、エレノアさんのこと。

 本来なら、あまり結びつかないはずなのに……ガルヴァンは、そこを確かめたかった」


 静かな声だったが、その響きには警戒があった。


「まるで、何かを確認するために」


 ホロは思い返す。


 あの瞬間。


 “エレノア”という名前を口にした時の、ガルヴァンのわずかな反応。


 あれは確かに、ただの興味ではなかった。


「……エレノアさんって、本当に何者なんだろう」


 ミナがぽつりと呟く。


 祖母の代から知っている、優しい老婦人。


 けれど、その奥にはまだ知らないものがある。


 最近になって、それを強く感じるようになっていた。


「昔話をしてくれたり、お菓子を持ってきてくれたり……

 普通のおばあちゃんみたいなのに」


「普通、ではないのでしょうね」


 ルシアが静かに言う。


「少なくとも、ガルヴァンのような人が気にかけるほどには」


 その言葉に、三人の間へ沈黙が落ちた。


 エレノア。

 北西の庭。

 領主アルフォンス。


 それぞれ別々だったはずのものが、少しずつ線で繋がり始めている。


 まだ形は見えない。


 けれど、確かにそこには“何か”がある。


「……やっと、本当の事を話してくれた。

 お兄ちゃんもルシアさんも、ずっと領主様のお庭のお手入れだと思っていたのに……

 きっと、何か危ないことをしているんじゃないかって、ずっと心配していたんだから」


 ミナが頬を膨らませてにらんでくる。


「ああ……ごめん、ミナ」


 ホロは静かにミナの頭をなでる。


「それで許されると思ってるの?」


 ミナが怒るのも分かるが、ミナを危険な目に合わせない為でもあった。


「でも……ちゃんと話してくれたから許す……」


 ミナの小さな声。


 そのミナの顔を見るホロは優しく目を細めて、妹の頭を撫で続ける。


「ミナちゃんが心配する気持ちはわかるわ。私もホロが一人でやっていたら同じ気持ちになるもの」


 ルシアがそっとカップを置いた。


「でも、これで先に進めるわね。

 けれど、それは同時に、一番危うい場所へ踏み込むということでもあるわ」


 その言葉に、沈黙が落ちる。


 誰もが分かっていた。


 あの北西の庭には、ただの秘密ではない何かがある。


 それに触れるということは、安全な場所から一歩外へ出ることだ。


「……怖くないって言ったら、嘘になる」


 ホロは正直に言った。


「でも、知らないままでいる方が、たぶんもっと怖い」


 ミナが、ゆっくりと息を吐く。


「お兄ちゃんは、そう言うと思った」


 少しだけ困ったように笑う。


「だから、止めない」


 その代わり、と続けた。


「ちゃんと帰ってきて」


 真っ直ぐなその言葉に、ホロは一瞬だけ言葉を失った。


 そして、静かに頷く。


「約束する」


 ルシアもまた、その横でそっと目を伏せる。


「私も、一緒にいるから……」


 その声音は、静かで、けれど確かだった。


 ホロは二人を見て、小さく笑った。


「……うん。二人がいてくれるから、進めるよ」


 夜は、静かに深まっていく。


 店の外では風が花を揺らし、遠くで街の灯りが瞬いていた。


 北西の庭。

 閉ざされた裏庭。

 その先にあるもの。


 明日、その扉に手が届くかもしれない。


 それが希望なのか、災いなのかは、まだ分からない。


 けれど――


 もう、目を逸らすつもりはなかった。


 ホロは窓の外の夜を見つめながら、静かに胸の奥で決意を結ぶ。


 明日、踏み込む。


 北西の庭の、その先へ。


 静かな夜の中、《ミモザの庭》には確かな覚悟だけが、そっと灯っていた。

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