第61話 白花に沈む記録
白い光が、視界いっぱいに広がった。
地下の冷たい空気も、ランタンの揺れる灯りも、ホロの声も、すべてが遠ざかっていく。
「ルシア!」
誰かが、自分の名を呼んでいる。
けれど、その声は水底から響くように遠く、手を伸ばしても届かなかった。
ルシアの意識は、白い光の中へ沈んでいく。
そして――。
見えた。
まだミールハイゲンが、今のような大きな街ではなかった頃。
丘の麓に寄り添うように広がる、小さな町。
粗末な木柵と低い石壁に囲まれた町には、市場と呼ぶには小さすぎる広場があり、畑も道もまだ十分には整っていなかった。
その未完成の町の中心に立っていたのは、今よりもずっと若いアルフォンスだった。
領主ではなく、貴族としての威厳も、今ほどの老獪さもない。
ただ、町をまとめる若き町長として、人々の前に立っていた。
その表情は、まだ理想を信じている者のものだった。
――民を守り、町を大きくしたい。
――この地に秩序をもたらしたい。
そう願っている、ひとりの男。
けれど、世界はその願いを待ってはくれなかった。
国境で、戦争が始まった。
初めは遠い話だった。
都から届く知らせも、商人たちが口にする噂も、どこか現実味がない。
けれど、やがて国境の村が焼けた。
畑が踏み荒らされ、家が崩れ、人々が泣き叫びながら逃げ惑う。
兵士の怒号。
赤く染まる空。
小さな子を抱えて走る母親。
荷物を捨てて逃げる老人。
家族を探して泣き叫ぶ少女。
戦場となった町や村から、人々は次々と逃げ出し、行き場を失った人々は、大きな街を目指した。
最初、各地の領主たちは彼らを受け入れた。
戦で失われた労働力を補うため。
畑を耕す者。
荷を運ぶ者。
壁を築く者。
難民たちは、必要とされた。
だが、その数は増え続けた。
日に日に食料は足りなくなり、寝る場所もなくなり、街道には助けを求める人々があふれた。
やがて、大きな街の門は閉ざされた。
これ以上は受け入れられない。
そう告げられた難民たちは、また歩き出すしかなかった。
寒さに震え、飢えに耐え、子を背負い、年老いた親の手を引きながら。
どこへ行けば助かるのかも分からないまま、ただ生きる場所を求めて流れていった。
――その頃。
アルフォンスは、町の北にある丘の上に立っていた。
丘の中腹には、古い洞窟があった。
かつて囚人を閉じ込めるために使われていた場所で、今では誰も近づかず、半ば忘れられた穴蔵になっていた。
その前で、若きアルフォンスは膝をついていた。
風が吹いている。
遠くでは、難民たちの列が街道を移動しているのが見えた。
助けを求める声。
泣き声。
祈り。
それらが、丘の上まで届いてくる。
アルフォンスは両手を組み、天へ向けて祈った。
「神よ……」
その声は震えていた。
「難民を受け入れます。彼らを、この地に住まわせます。働ける者には仕事を与え、この町を大きくします」
風が、彼の髪を揺らす。
「その代わりに……私を、この地の領主にしてください」
アルフォンスは顔を上げた。
「この領地を守る力をください。戦にも、飢えにも、混乱にも負けない力を」
その願いは、天へ届いた。
ルシアの視界の中で、空が白く輝く。
雲が裂け、光の筋が丘へ降り注いだ。
その中から、一人の使者が現れた。
白い衣。
淡い光を宿す翼。
顔立ちははっきりとは見えない。
ただ、その存在が人ならざるものであることだけは、疑いようがなかった。
アルフォンスは息を呑み、深く頭を垂れた。
すると、使者は静かに告げた。
「赦しの巫女の命により、汝の願いを聞き届ける」
赦しの巫女。
その名が響いた瞬間、過去を見ているルシアの胸が、わずかにざわめいた。
知らない名だ。
けれど、その響きには確かに高位の天の気配があった。
使者は続ける。
「この丘を中心に防壁を築け。流れ来る者を拒まず、この町に受け入れよ。町を守り、秩序を保て」
アルフォンスは震える声で答えた。
「それを成せば……私は」
「汝の地位は、正当なものとなる」
使者の声は淡々としていた。
「赦しの巫女は、正当性と均衡を司る。汝が難民を受け入れ、この地に秩序を築くならば、その行いは天界に認められる」
アルフォンスは、深く頭を下げた。
「……お受けします」
その瞬間、光が町を包んだ。
丘の周囲に、天界の影が降りる。
黒い影のような羽衣をまとった者たち。
彼らは言葉を発しない。
シャドウブレード。
影の刃を持つ天界の兵たち。
彼らは数日で町の周囲に最低限の防壁を築いた。
人の力では到底成し得ない速さで、石が積まれ、柵が補強され、見張り台が立つ。
戦に怯えていた町は、突然守られた場所へと変わっていった。
その噂は、すぐに広がった。
ミールハイゲンは難民を受け入れている。
あの町へ行けば、生きられる。
そう聞いた人々が、次々と集まってきた。
初めのうち、アルフォンスは約束を守った。
町の門を開き、難民を受け入れた。
働ける者には畑を開墾させた。
力のある者には防壁の補修を任せた。
女たちは炊き出しや縫い物に回され、子どもたちは荷運びや水汲みを手伝った。
町は賑わい、人が増え、畑が増え、道が整っていく。
アルフォンスの名は、少しずつ広がり始めた。
難民を救う町長。
天に選ばれた男。
民を守る者。
だが、人数は増え続けた。
日を追うごとに、食料は足りなくなっていく。
倉の中は減り、畑の収穫は追いつかない。
水場には列ができ、寝る場所も足りない。
働ける者よりも、働けない者の数が増えた。
子ども。
老人。
病を抱えた者。
戦で傷を負った者。
需要と供給は崩れ、町は救いを求める人々の重みに耐えきれなくなりつつあった。
若きアルフォンスは、夜の執務室で一人、頭を抱えていた。
「このままでは……町そのものが潰れる」
蝋燭の火が揺れている。
机の上には、食料の帳簿と、人員の記録が広げられていた。
どれだけ計算しても、答えは同じだった。
足りない。
受け入れ続ければ、町は崩壊する。
しかし、受け入れを止めれば、天界との約束を破ることになる。
アルフォンスは長い沈黙の末、ひとつの答えに辿り着いた。
それは、決して人が選んではならない答えだった。
丘の上には、洞窟がある。
かつて囚人を捕らえるために使われた場所。
今は使われていない、深く暗い穴。
アルフォンスは、難民たちに告げた。
「一時的な避難場所を用意した」
彼の声は優しかった。
「町の中は混み合っている。しばらくは丘の洞窟で休んでもらう。順に住まいと仕事を割り当てよう」
人々は感謝した。
疑う者は少なかった。
助けを求めて流れてきた彼らにとって、アルフォンスは救いの手を差し伸べた人に見えたのだ。
だが、その時から、アルフォンスの中で、人としての何かが崩れ始めた。
洞窟へ集められた難民たちは、選別された。
若く力のある男たち。
若い女性たち。
子どもたち。
老人や病人、働けない者たち。
アルフォンスはまず、男たちを呼び出した。
「労働力が必要な場所がある。そこで働けば、食料も住まいも与えられる」
男たちは疑わなかった。
妻や子を守るために働けるならと、次々に馬車へ乗った。
複数台の馬車が、夜明け前に町を出ていく。
行き先は、国内ではなかった。
遠い異国。
奴隷制度が存在する国。
そこで男たちは、労働力として売られた。
ルシアの視界が震えた。
映像は次へ移る。
子どもたちがいた。
母の手を探す小さな手。
兄弟で肩を寄せ合う姿。
泣き疲れて眠る幼い顔。
その子どもたちにも、買い手がいた。
国内の貴族たち。
裏で密かに、子どもを欲しがる者たち。
従者として、養子として。
あるいは、それよりもはるかに歪んだ目的のために――。
ルシアは息を呑む。
見たくない。
見てはいけない。
そう思うのに、映像は止まらなかった。
子どもたちは高く売れた。
名前を奪われ、家族と引き離され、どこかへ連れていかれる。
泣き叫ぶ声が、耳に突き刺さる。
次に、若い女性たち。
その扱いは、さらに酷かった。
貴族の屋敷へ送られる者。
異国へ運ばれる者。
そして、娼館や貴族たちの隠された部屋へ送られる者。
彼女たちは人としてではなく、欲望を満たすための品として値を付けられ、売られていった。
その先で何を強いられるのか、ルシアには分かってしまった。
だからこそ、目を背けたかった。
けれど、映像は容赦なく続いていく。
泣き声。
抵抗する声。
悲鳴。
嗚咽。
そのすべてが、白い光の中で焼きつくように残っていく。
最後に残されたのは、老人や病人、働けない者たちだった。
彼らは洞窟の奥へ押し込められた。
鉄格子の向こう。
冷たい石床と薄い布、わずかな水。
食事はほとんど与えられなかった。
弱った者から倒れていく。
誰かが名前を呼ぶ。
誰かが祈る。
誰かが、もう開かない扉を叩く。
やがて声は細くなり、消えていった。
遺体は運び出され、丘の裏で焼かれた。
黒い煙が、毎日のように上がっていた。
だが、町の人々はそれを深く気にしなかった。
戦時の煙だと思った者もいた。
新しい窯だと思った者もいた。
防壁工事の焚き火だと聞かされた者もいた。
誰も、真実を知らなかった。
アルフォンスは、難民を受け入れ続けた。
天界との約束は、表向きには守られていた。
門は閉ざされなかった。
人々は確かに、町へ入れられた。
けれど、その先で何が行われていたのかは、天界へ伝えられなかった。
ルシアは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
これは救済ではない。
約束の形だけを守り、その内側で人を切り捨てる、あまりにも歪んだ秩序だった。
報告されたのは、ただひとつ。
アルフォンスは難民を受け入れ、町を守り、秩序を保った。
それだけだった。
やがて、国は彼を認めた。
混乱の中で民をまとめ、町を発展させた功績者として。
アルフォンスはミールハイゲン領の領主となった。
その足元には、名も残らぬ人々の骨が積み重なっていた。
白い光が、再び膨れ上がる。
難民たちの声が遠ざかる。
鉄格子の音が消える。
黒煙が薄れ、白い花弁が舞う。
そして――。
「ルシア!」
ホロの声が、急に近くなった。
ルシアは現実へ引き戻された。
地下牢の冷たい空気。
ランタンの揺れる光。
鉄格子。
朽ちた布。
白い人骨。
すべてが一気に戻ってくる。
「……っ、は……」
息がうまく吸えなかった。
胸の奥から、強烈な吐き気が込み上げる。
ルシアは口元を押さえ、その場に膝をついた。
「ルシア!」
ホロがすぐに駆け寄る。
彼の手が、ルシアの肩に触れた。
「大丈夫か? 何があった?」
「……大丈夫……」
そう言おうとした。
けれど、声はかすれていた。
顔から血の気が引いているのが、自分でも分かった。
指先が震えている。
見たものが、あまりにも鮮明だった。
これまでにも、記憶のような断片を見たことはある。
けれど、ここまで深く、ここまで生々しく流れ込んできたことはなかった。
「大丈夫じゃない顔をしている」
ホロの声には、隠しきれない不安があった。
ルシアはゆっくりと首を振る。
「……見えたの」
その一言で、エリオの表情が変わった。
「過去か」
ルシアは小さく頷いた。
ミラもランタンを持ったまま、静かにこちらを見ている。
その表情は冷静だったが、灰青の瞳には鋭い光が宿っていた。
「何を見た?」
エリオが問う。
ルシアは一度目を閉じた。
言葉にするのが怖かった。
口に出せば、あの光景が現実だったと認めることになる。
けれど、黙ってはいられない。
ルシアは震える息を整え、ゆっくりと話し始めた。
アルフォンスが、まだ領主になる前の町長だったこと。
戦争で難民があふれたこと。
彼が天へ祈り、天界の使者が現れたこと。
赦しの巫女の命により、この地に防壁を築き、難民を受け入れるよう告げられたこと。
シャドウブレードが防壁を築き、町を守ったこと。
そして――。
アルフォンスが、受け入れた難民を選別したこと。
男たちを異国へ売ったこと。
子どもたちを貴族へ渡したこと。
若い女性たちを、言葉にするのも苦しい場所へ送ったこと。
老人や病人を洞窟の奥に閉じ込め、死なせたこと。
遺体を焼き、黒煙が丘から上がり続けていたこと。
ルシアが話すたびに、ホロの顔から血の気が引いていった。
エリオは何も言わない。
だが、その瞳は今までにないほど険しかった。
ミラだけは、静かに耳を傾けていた。
驚きはある。
だが、完全に想定外という顔ではなかった。
すべてを聞き終えたあと、最初に声を出したのはホロだった。
「……そんなことが……本当に……」
言葉が続かなかった。
人が人にすることではない。
けれど、今いるこの場所が、ルシアの見た過去が現実であることを物語っていた。
鉄格子。
朽ちた布。
白い骨。
忘れられた地下牢。
すべてが繋がっている。
エリオが、低く呟いた。
「赦しの巫女……だと」
その声は、わずかに震えていた。
ルシアは兄を見る。
「エリオ……知っているの?」
エリオはすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「天界でも、高位の存在だ」
その言葉には、重さがあった。
「赦しの巫女は、裁きと秩序を司る方の側近であり、正当性と均衡を見届ける役目を持つ」
エリオの拳が、わずかに握られる。
「そんな方の命で、アルフォンスが支援されていたなど……」
信じられない。
そう言い切らなくても、その表情がすべてを物語っていた。
エリオにとって天界は、絶対ではないにしても、秩序の象徴だった。
その中枢に近い存在が、人間の男に力を貸した。
そして、その男がこの惨劇を生んだ。
ルシアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「私は……赦しの巫女が何なのか、詳しくは知らないわ」
ルシアは静かに言った。
「でも、あの使者からは、高位の天の気配を感じた。軽い存在ではなかった」
エリオは苦しげに目を伏せる。
ホロは二人の会話を聞きながら、拳を握りしめた。
自分には知らないことばかりだ。
けれど、ひとつだけ分かることがある。
ここで何かが行われた。
そして、それは隠されてきた。
「……もし、ルシアが見たものが本当なら」
ホロはゆっくりと言った。
「証拠があるはずだ」
全員の視線が集まる。
「これだけのことをしたなら、何か記録が残っている。売られた人たちの名簿とか、金のやり取りとか、天界への報告とか……何かが必ずある」
ホロは地下牢を見渡した。
「それも、たぶんこの洞窟のどこかに」
ミラが静かに頷いた。
「同感です」
その声は、驚くほど冷静だった。
「ここまでの規模なら、口頭だけで処理できるものではありません。人の移送、金銭、受け入れ人数、死者数……何かしらの記録を残していた可能性が高い」
ホロはミラを見る。
「ミラさんは……驚かないんですね」
「驚いていないわけではありません」
ミラは淡々と答えた。
「ですが、領主が隠しているものが善良な記録であるとは、最初から思っていませんでした」
その言葉は冷たかった。
だが、現実を見てきた者の言葉だった。
ルシアの体が、わずかに揺れる。
ホロはすぐに水筒を取り出した。
「ルシア、水を飲んで」
「……ありがとう」
ルシアは水筒を受け取り、少しずつ喉を潤した。
冷たい水が、震える体をわずかに落ち着かせてくれる。
ホロはその傍に膝をついたまま、静かに声をかけた。
「無理はしなくていい。少し休んでからでいい」
ルシアは首を横に振った。
「……大丈夫」
まだ顔は青い。
けれど、その瞳には少しずつ光が戻っていた。
「見たものが本当なら、ここで止まるわけにはいかないわ」
エリオは妹を見つめ、何かを言おうとして口を閉じた。
止めたいのだろう。
だが、ルシアの決意も理解している。
ホロは立ち上がり、鉄格子の並ぶ通路の奥を見た。
暗闇はまだ続いている。
その奥に、アルフォンスの罪を示す何かがあるかもしれない。
あるいは、さらに深い絶望が待っているのかもしれない。
それでも。
探さなければならない。
「行こう」
ホロは静かに言った。
「この洞窟のどこかに、アルフォンスの悪行を示す証拠があるはずだ。それを見つける」
エリオが頷く。
「分かった」
ミラもランタンを持ち直した。
「慎重に進みましょう。ここから先は、何が残っていてもおかしくありません」
ルシアは水筒をホロへ返し、ゆっくりと立ち上がる。
まだ足元は少し不安定だった。
だが、ホロがそっと手を差し出すと、ルシアはその手を取った。
温かい。
現実に戻ってこられる温度だった。
「……ありがとう、ホロ」
「うん」
短く答え、ホロは彼女を支えた。
四人は顔を見合わせる。
誰も笑わない。
けれど、同じ覚悟がそこにあった。
忘れ去られた地下牢。
白い骨。
そして、白い花弁が舞う過去の記録。
その奥に隠された真実へ向けて、四人は静かに歩き出した。




