桜〔下〕
咲多彦は前かがみになり両手に力を込め続ける。
「咲多彦!? 何をしている!!」
「人間の身体は重くてかなわない、笛をよこさぬ以上この身体に死んでもらわなければ自由に動けないからね……悪いけど死んでもらうよ」
咲多彦はささくれだった小枝でゆっくりと私の首の急所を貫いた。
美しい男の顔は奏春に変わり、顔色はもう生きているもののそれではなくなっていた。
痛みが無いせいなのか自分が死んだというのにまるで他人事のように感じるが、簡単に命が摘まれたことに神の非情さを感じ咲多彦への怒りは増すのだった。
奏春の身体が腰からくだけて池の縁に崩れ落ちると、
池に突っ伏した私の死体の頭頂から咲多彦はするりと抜け出し水面に立った。
「もうハルに帰る肉体は無いよ、身体も軽くなったし今から笛を取り返すから覚悟してね。ハルは魂のまま魑魅魍魎たちと黄泉を彷徨い続ければいい……」
口の端だけ上げて笑う咲多彦はぞっとするほど美しい。腐っても神か……。
風が私の横を通りすぎ何処かにに向かっていく気配がする。よく見ると咲多彦の身体を芯にして風の渦が回り始めていて風はそちらに向かっているのだ。
咲多彦は風の渦と共にジリジリと距離を縮め、渦は散りゆく花びらを吸い込んでいった。
……桜を纏った……神……
神の迫力と美しさに動けない。
自分の肉体が死んだのには未練はないが、このままだと非常にまずいような気がする。
咲多彦を取り巻く風の渦が大きくなりスピードが確実に速くなっているのだ。
渦は水面から陸に上がり地面に落ちている桜の花びらを舞い上がらせ、無数の花びらが渦を巻き天高く上り、風の届かない上空まで到達すると雪の如く降り注いだ。
(あぁ、美しい……まるで幻夢のよう……)
危機のさなかにありながら私は見惚れていた。
そして、降り注ぐ桜の中で閃いた。
笛をしっかり握り直した私は咲多彦に合わせジリジリと後退し、背後に桜の幹との程良い距離を感じたところで足を止める。桜に入られては困る咲多彦は更に渦を大きくして回転を早め唸りを上げると、猛スピードで突っ込んで来る。
(今だっ!!!)
反射神経とバネに自信がある私は思いっきり横っ飛びに飛び、肉体を持たない意識体の身体は軽々と宙を舞い着地する。
突然標的が消えた咲多彦は桜の幹にぶつかる寸でのところで止まり、振り向いた。
桜の枝は旋風で軋み悲鳴を上げ……こちらを睨む美しい顔は歪んでいる。
「おのれっ! ハル!」
今度は私が笑う番だった。
「お仕舞にしましょう。もう勝負は決まったわ」
「何を言っているのさ、まだだよハル! まだこれからだっ!!」
「あなたが教えてくれたのよ、花が全部散ると桜が閉じるって……バカな咲多彦……」
咲多彦は桜を見上げる。自分が起こした旋風によって今まさに最後の一片が散ろうとしている。
急いで風を収めた咲多彦だったが、時すでに遅く最後の一片はヒラヒラと枝から離れていった。
夢鏡桜は主である私を吸い上げ、そして閉じた。
今年も春がやってきた。もうすぐ桜が開花する。
咲多彦はきっと魑魅魍魎たちの駆除の隙をついて夢鏡桜を奪いに来るだろう。
この一年間、私を倒す為に策を練っていたに違いない。だが私もただ桜の中にいてじっとしていた訳ではない。
空翔ける雷神を呼び止め、太い枝一本と純潔を捧げ、お願いを請うて剣と神の名をいただいた。
私はもう、ハルでも奏春でもない。
私の名は夢鏡桜に宿りし神、速奏織春比売!
今年も桜佐須良咲多彦を迎え撃つ!!
******
「桜がシャワーみたいで綺麗だね。ママ、今年はどっちの神様が勝つのかな?」
「そうね、去年は五年ぶりに男神が勝ったから今年は女神かな? 男神が勝った翌年は戦いが激しくなるそうだから、きっと今年はいつもより綺麗な桜の舞がみられるわよ」
「どっちが勝ったのかは、どうして分かるの?」
「戦いが終わった後のお池の水面を見るのよ。花びらが右に集まれば男神、左に集まれば女神の勝ちよ……それにしても夢鏡桜は人気物ね」
桜吹雪の中、大勢の花見客は桜に酔い酒に酔いつつ今か今かと決戦の時を待っている。
魑魅魍魎たちも人に見えぬのをよいことに酒や食べ物を盗み食らい、それでも足りぬ図体の大きい輩は花見客の頭に食らいつき生気を吸っている。麗らかな春の日差しの中、人と魑魅魍魎たちの宴は続き二神の決戦の時は迫っていた。
突如「おおおぉ」というどよめきが花見客のあちらこちらから起こり、皆が一斉に池に視線を送る。
右側の水面上に小さな旋風がクルクルと桜吹雪を回転させ、次第に渦は大きくなり舞い散る花びらが吸い込まれていく。心躍る笛の音が聞こえる魑魅魍魎たちは、花見客の側から離れ狂喜乱舞し次々に池に溺れ吸い込まれていった。
すると、左側の水面上にも突如旋風が現れ桜吹雪は二手に分かれクルクルと渦に吸い込まれて二本の柱になる。
桜色の花びらの渦は間合いを取りながらお互いにじりじりと近づいて行く……。
近づく速度が速くなり、桜の渦はぶつかり合いそして離れ、また再びぶつかり合った。
今度はお互いを探るように暫く池の左右に別れ風の渦は更に大さと高さを増し、未だ散るには早い花びらまでをも夢鏡桜から奪っていく。
花見客の誰かが呟いた。
「そろそろだな……くるぞっ!」
その言葉通り、旋風は回転を増しスピードを上げ激しくぶつかり合い、せめぎ合い、二つの渦は砕け散り一瞬で消えた。
空中に舞い上げられた花びらたちは足場を失くし一斉に降り注ぎ、豪華絢爛花の舞となる。
花見客はあまりの美しさに息を飲みため息を漏らすのだった。
「凄かったねママ!! 夢みたいに綺麗だったね!」
「桜の渦が水面にまで映って、本当に夢のようだったわね」
「ねえ、花びらはお池のどちらかに集まって勝ち負けが分かるんでしょ?」
「そうよ、桜がたくさん降って今は全体に散らばってるでしょ? 花が全部散る頃には分かるわよ」
夢鏡桜は、幾度か現れる旋風によって他の桜より散るのが早い。
美しい姿は夢から醒めるように終わり、嘆く者もいる。
花散らす 風の宿りは 誰か知る
我に教へよ 行きて うらみむ
-古今和歌集ー
短すぎる開花の楽しみに、風を興す神に文句を言いたくもなるものだ。
もっと長く楽しませてくれと……。
……夢鏡桜
あまりの美しさに男神と女神が奪い合うという、夢鏡桜。
夢鏡桜……またの名を悪縁を断ち切る、縁切り桜とも呼ばれている。
読んでくださってありがとうございます。
さぁ、お花見に繰り出しましょう!




