第98話 攻防
「い、いや。9,980万円はさすがに厳しいと思います。専任を出した仲介にも動きの良い価格帯で出して欲しいって言われてますし」
俺は立ち尽くした。
なんとか価格を下げないと。
瑕疵がなかったとしても、この価格じゃ山田さんに何のメリットもない。
「いやいや。それを売ってこその地元密着でしょー? その図面みて。ほら、私は君と違ってエビデンスを準備してますよ?」
部長は販売図面をめくった。
図面には55平米のマンション。
同じ5階で成約価格9,500万円の文字。
「いや、でも」
「っていうかね。君は担当者としてここに呼ばれてるだけなんだよ? 自覚ある? まぁ、これは決定事項だから」
仕方ない。
工事員の事故の件を話すか。
少しは慎重になるはずだ。
すると、池田次長と目があった。
首を振っている。
次長は手を上げた。
「あのぉ。私は一応、文京は詳しいですし、意見を聞いてもらえると思ってたんですが。予定をキャンセルして来てるのに、2人で勝手に決めてハイ終わり、とか酷くありませんか?」
「あぁ、池田次長もいたんだ。んで、このエビデンスを覆すような主張があるんですか?」
部長の言葉に、次長は露骨に不機嫌そうな顔をした。
「あのー。この図面、2021年のなんですけど」
次長の声は掠れている。
「いや、あのエリアはその後に成約事例はないんですよ。でも、都内のマンションは天井知らずだからねぇ。5年前で9,500万なら、今は9,980万でも安いくらいですよ。ねっ、専務?」
部長がそう言うと、専務は得意げに頷いた。
あれしかないか。
俺はバッグに手を入れた。
それにしても……この2人。
なんでこんなに、したり顔なんだ?
いつも態度がでかいが、ここまでじゃない。
次長は部下を守るタイプだ。
俺も、次長が三条君を庇って部長に噛みついているのを、見たことがある。
専務はゼネコン出身。
部長はハウスメーカー出身。
それに対して、池田次長は現場に詳しい仲介上がり。
そして俺は競売部出身。
専務と部長は、端から話を聞く耳を持っていない。それなのに、わざわざ次長を呼んだ。
マウント!?
この機会を利用して、次長をいびるつもりなのだ。
——俺は自らの結論に愕然とした。
ゴキュッ。
部長はペットボトルの蓋を捻ると、水を飲み干した。
「ほんと、叩き上げは感覚だけで動くから困ったものだよ」
部長は薄ら笑いを浮かべた。
ギリッ。
口の中で奥歯が軋む。
部長のペットボトルから、水滴が伝い落ちた。
まだだ。
まだタイミングじゃない、
俺はバッグに入れた手を戻した。
次長の表情は変わらない。
そして、俺を見ると微かに笑った。
俺が異動しても昔のままだ。
事情を知っていて、俺を助けに来てくれた。
次長が口を開いた。
「部長。山路のマンションの裏は墓場なんですが。まさか、それを考慮しないで値付けをしたりはしていないですよね?」
すると、部長は販売図面をポンポンと叩いた。
「ねぇ、池田次長。図面はよく見ないと。この地図に霊園って出てるでしょ。そのマンションも墓地の隣なのに9,500万で売れてるよ?」
専務が薄ら笑いを浮かべた。




