第97話 次長
「飛び降り自殺?」
ぐらん。
目の前が一瞬、薄暗くなった。
「そう。自殺。同じマンションの人に聞いたんですよ。私は内見があってすぐには出れないから、午後にでも管理人のところにいくつもりです」
電話越しにナビの音声が聞こえる。
「私も午後から出れるので行きます!」
すると、山田さんの声が低くなった。
「……本当に良いんですか? 私が取捨選択してお伝えすることもできますが」
——俺が知らずに済むようにか。
「はい。もう手遅れですよ。山田さん、優しいですね」
午後に約束をして通話を切った。
前屈みになった。
頭が痛い。
両手で額を押さえる。
とりあえず、スマホで心理的瑕疵と飛び降り自殺について調べた。スワイプすると、どんどん事例が出てくる。
ほとんどのケースで、心理的瑕疵が認められていた。
「だよな。隠したら、最悪の場合は契約解除か。後から発覚して和解金2,000万なんてのもある」
モロに飛び降り自殺だったら、さすがに告知しない訳にはいかない。
……吐き気がする。
地面を踏む感覚がぼやける。
すると、声をかけられた。
「山路。課長昇進おめでとう」
見上げると、池田課長だった。
「課長……いや、次長こそ昇進おめでとうございます。今日は、どうしたんですか?」
「あぁ、なんか専務に呼び出されてさ。んで、専務はお取り込み中?」
俺は頷いた。
池田次長は俺の横に座った。
長椅子が揺れる。
「ったくよ、呼び出しておいてこれかよ。んで、山路どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」
次長なら違う部署だし、大丈夫か。
「実は、私の物件が瑕疵物件かも知れなくて」
事情を説明した。
すると、次長は頬杖をついた。
「なるほどねぇ。売主業者は飛んで、しかも飛び降り自殺か。アウトだわ」
「ですよね。かなりマズイ状況です。仕入れ値の4,350万でも売れないかも……」
「でも、まだ詳細は分からないんだろ?」
「そうですけど」
「なら、違う部屋かも知れないじゃん。まずは、価格会議だな」
「え? 専務に報告するし、それどころじゃないんじゃ」
次長は顎を撫でた。
この人は真顔でも、少し笑顔に見える。
「ばーか。ビビりの専務と部長の耳に入れてみろ。半値で売り抜けろとか言い出しかねないぞ」
「でも、仕方ないですよ」
次長は俺の肩を叩いた。
「お前なぁ。俺が教えたこと何も覚えてねーだろ。こういう時に大事なのは、順序とタイミングなんだよ。今、言ったらどうなる?」
「一方的に価格を決められるってことですか?」
「もし報告の必要がない瑕疵だった場合でも、ずっと部長に仕切られるってことだよ。価格だけじゃなく売り方についても、お前の裁量が一切なくなるぞ?」
「はい。でも、どうしたら?」
「だから、専務に言うのは告知することが確定してからってこと。後から『さっき発覚しました』とか言っとけば問題ねーから。目下の問題は価格会議だろ?」
「午後になったら詳細がわかるんで、なんとか会議をキャンセルできないですかね?」
次長は「はぁー」と息を吐いた。
「ばかやろう。会議をキャンセルしたら、今度はその理由を追求されるぞ?」
「じゃあ、値下げするしか……」
次長は首を横に振った。
「こういうのはレンジなんだよ。瑕疵物件なんて多少下げても売れない時は売れねーから。そういう物件なら、なおさら速攻で売った方がいい。狙うべきは、瑕疵なし物件の下限、瑕疵あり物件の上限の値段だな」
「それってどれくらいですか?」
すると、ドアが開いた。
部長だ。
「くれぐれも自爆しないようにな」
次長は小声でそう言うと、立ち上がった。
パンパンと埃を払って、会議室に入っていく。
え?
次長も同席するのか?
「ほら、早く入れよ」
戸惑っていると、部長に肩を叩かれた。
俺は大きく息を吸って、立ち上がった。
部屋に入ると、上座で専務が足を組んでいた。
その両側には、部長と次長。
俺の席はその正面。
まるで査問会だ。
資料をテーブルに置いて、自分の席に座った。
部長が口を開いた。
「では、価格会議を始めます。山路君の物件について、資料を見させてもらったのだが」
部長に販売図面を渡された。
すると、専務が続けた。
「部長と事前に相談してね。9,980万でスタートということになった」
約1億円……。
この人たち、売る気あるのか?
……しかも飛び降りてるんだぞ。
現実味のない数字に、俺は苛ついた。




