第9話 記憶
「わたし、被災地で1人でいるところを保護されたらしいんです。身元に関するものを一切、持っていなくて」
「名前も?」
桜藍は首を横に振った。
「名前は覚えてました。保護された時にそう答えたと。お医者さんが言うには、精神的に強いショックを受けたことが原因かもって」
「それで、父さんに引き取られたんだね」
「はい。当時は新聞の端っこに載ったらしくて、その記事をパパが見つけて、わたしをこの家の子にしてくれました。だからね。あのね……」
「どうした?」
「わたし、春馬さんの家族に割り込んで……ごめんなさい。でも、わたしここしか居場所がないから」
俺は自分の肘を抱えた。
『出て行ってくれないか』
葬式の後に言った俺の言葉が、今も桜藍を傷つけている。
「俺の方こそごめん。桜藍がいて良かった。いつもそう思ってる。それに、最近の両親の事を知っているのは、桜藍だけだし」
「わたしも春馬さんがいてくれて……すごく良かったです。すごく優しいし。あのね。わたし、記憶を失う前、たぶんだけど一人っ子だったんです。だから、お兄ちゃんができてすごく嬉しい」
「感覚的な記憶?」
桜藍は頷いた。
「なんとなくの話です。もしいつか記憶が戻って、兄弟沢山いたらごめんなさい」
桜藍は口元を綻ばせた。
『いつか』
俺は、その言葉に動揺した。
もし、桜藍の記憶が戻って。
桜藍に本当の兄がいたら?
……俺らは『他人』に戻るのかな。
俺は首を横に振った。
今、そんなことを考えても仕方ない。
俺がすべきは、理想の女の子にすること。
これは俺のエゴだ。
でも、それでいい。
——1人に戻っても、桜藍が大丈夫なように。
「春馬さん?」
桜藍が俺の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「深刻な顔をしてる。元気ないの? お兄ちゃんって呼んだ方がいいですか?」
「いや、なんか照れくさいし」
兄と呼ばれると、何かを失った気がする。
だから、俺は言葉を続けた。
「それなら『お兄様』がいいかな。なんかクルものがあるし」
「ええっ。春馬お兄様。キャッ。ちょっと恥ずかしいかも? やっぱり、しらばらくは春馬さんのままでお願いします」
桜藍の耳の縁が赤くなっている。
俺はその様子を見ながら、少しだけホッとした、
「それはそうと、英語をどうにかしないと。アルファベットはわかる?」
桜藍は頬を膨らませた。
「バカにしすぎですぅ。分かりますし! でも、他の科目はそんなことないのに、なぜか英単語は全然覚えられなくて。無理に覚えようとすると頭痛がしてくるし」
頭痛か。
「そうか。じゃあ、無理のないように対策していこうか。あと、さっきは気づかなかったんだけど、体育も4なんだが。10段階の4、それは即ち、5段階なら2……」
「春馬さんのいじわるっ。べーっだ。そうですよ。わたしは運動が苦手なんです」
桜藍はそう言って胸を張った。
『そのでかいお胸が邪魔なのでは』
そう思ったが、言うのはやめた。
「それなら、少しは手伝いできるかも。俺、こう見えても運動は得意なんだよ」
「そうなんですね! でも、理想の女の子に体育も関係あるんですか?」
「いや、あまり関係ないかも。普通に桜藍とバスケとかして遊びたいだけかも」
俺は鼻先をかいた。
「それなら、してあげてもいいですよ? あの、わたしからもお願いがあるんですけど」
「なに?」
「今度、週末にお買い物に行ってもらえませんか?」
「構わないよ。欲しいものでもあるの?」
「内緒です」
「楽しみにしておくよ。まぁ、その前に面接を乗り越えないとな。働かないと金ないし」
「そうですね。いざとなったらわたしがオジサンとお話するバイトを……。次の面接はいつなんですか?」
「だから、それはない方向で。するなら普通のバイトにしてよ、面接は来週らしい。俺、頑張るから」
「じゃあ、お金のかからないお願いもいいですか?」
桜藍は俺の背中に頬を押し当てた。
「これがお願い?」
「わたし、こうしてると安心するんです。ここに居てもいいんだ、って」
「そっか」
いつか、桜藍がこの家を去るとしても。
俺がすべきことは、何一つ変わらない。
——桜藍と一緒にいる。
それは、契約で。
希望で。俺は兄だから。




