第5話 弁当
「起きてください!」
目を開けると、目の前に桜藍の顔があった。
ふわっとミントのいい香り。
「んっ。ああ。おはよ」
口の中がネバネバする。
俺は自分の口を塞いだ。
「おはようじゃないです。お口を塞いで内緒ごっこですか?」
「いや、これは……」
桜藍の良い匂いに引け目を感じたなんて、さすがにカッコ悪すぎる。
「春馬さん、自分で面接だから寝坊したらダメとか言ってたんですよ? それなのに春馬さん、全然起きないんですもん」
そうだった。
まだ頭がボーッとする。
立ち上がった桜藍を見上げた。
「悪い。ところで、大丈夫か? 桜藍は学校はいけそうか?」
桜藍は乱れた前髪をいじった。
「昨日、春馬さんが沢山お話してくれたし、大丈夫です。でも、まだ1人だとちょっとだけ怖いかも。春馬さんに早く帰ってきて欲しいかも……です」
「分かった。遅くならないようにするよ」
「うんっ。あっ、ワイシャツを洗ってアイロンしておきました。脱衣所のハンガーにかかってますから」
「まじ? 悪い」
なんていうか、うちの妹は恋育する前から初期ステータスが高すぎる。
「えと、あと。お弁当はあっちにあるので持っていってください! 朝食はテーブルにありますから」
「あぁ」
会話がひと段落すると、桜藍は通学バッグを肩にかけて、玄関に向かった。
「いってきまーす。あっ……」
「どうした?」
桜藍が俺の背後に回り込む。
背中に耳を押し付けているみたいだ。
「ちゃんと帰ってきてね。ひとりは怖いの」
声が震えている。
パタンと戸が閉まり、俺はポツンと1人になった。テーブルの上には、桜藍が並べてくれた皿や茶碗。
ズズッ。
ご飯をよそって、味噌汁をすする。
「この味噌汁、……まじで沁みる」
温かい味噌汁を飲むと、身体の芯に力がみなぎるのを感じた。俺は目玉焼きと納豆をかっこみ、洗面台で顔を洗った。
髭を剃って顎に触れる、
ツルッとした感触。
洗面鏡にうつる自分は、いつもよりも少しだけマシだった。
「そろそろ出る時間だ。ワイシャツにアイロンしてくれたんだっけ」
脱衣所に行くと、ハンガーにワイシャツがかかっていた。襟と袖は綺麗になっているが、背中に皺が集まっている。
「早起きして頑張ってくれたのかな」
ワイシャツに袖を通すと、微かに林檎の香り。袖の奥は、まだ少しだけ温かかった。
ジャケットを羽織って、玄関に鞄を置く。
「あれ? 革靴が光っている」
俺は、誰もいない廊下に振り返った。
この言葉、きっと学生の時以来だ。
「……行ってきます」
♦︎
ガタン。
電車の吊り革を持ちながら、スマホを開いた。
「飯島の会社、たしか不動産業だったよな。一応は調べておくか。たしか会社名は……」
友人が立ち上げた会社なのに、ほとんど知らない。前に誘われた時も調べすらしなかった。
「えっと、会社概要は……。は? 従業員800人!? 年商350億円? 設立してから5年やそこらの会社だぞ?」
飯島の会社が順調なことは聞いていた。
「飯島のやつ。大学にもマトモに来なかったのに。大出世じゃないかよ」
俺の胸の中は激しくザワついた。
調べなかったんじゃない。俺は飯島の仕事のことを知りたくなかった。
俺はスマホの画面をスワイプした。
「もう十分だ」
トピックス欄には『当社が特集されました』の文字。
「『新進気鋭の企業』ランキング入りだってさ。……ははは。すげーわ」
俺はネクタイを締め直した。
まさかここまでの会社だとは。内心、面接なんて適当でも受かると思っていた。
「ここ、本来なら俺なんて面接すら受けられない会社だ」
飯島は設立直後にも誘ってくれていた。もし、あの時、飯島の誘いを受けていたら?
俺も今頃は取締役とかになってたのかな。
でも現実の俺は、全然違う。
無職の彼女なし。
遺産の通帳も、270,693円。
妹との生活費にも事欠くような男。
俺は苦笑した。
電車の車内アナウンスが流れた。
『間もなく、桜木町、桜木町。右側の扉が開きます。ご乗車のお客様は』
電車を降りた。
飯島の会社は横浜にある。
「ここか」
建物の目の前で、俺は空を見上げた。
ピカピカで巨大なオフィスビル。
俺のいる場所は日陰になっていて、逃げ出したい気持ちになった。
エントランスには外国人が沢山いて、英語の商談が聞こえてくる。俺が勤めていた小さな雑居ビルの会社とは大違いだ。
俺がここで働く?
想像できない。
「ははっ。ここ、俺にはきついわ。帰ろうかな……」
すると口の開いたバッグから、ピンクの巾着が見えた。桜藍が作ってくれたお弁当。
「まだ働いていないのに。でも、サンキュー」
桜藍が早起きして準備してくれたのかと思うと、胸が温かくなる。
「やれるだけやってみるか」
俺はエントランスに足を踏み入れた。
♦︎
俺は受付で案内された廊下で待っていた。
クリーナーの匂い。
どこからか、英語が聞こえてくる。
口の中が乾く。
俺はペットボトルのお茶を口に含んだ。
「ヤベッ」
指が震えて、ペット蓋がコロコロと床に転がった。
「どうぞ」
中からの声。
(飯島の声じゃない)
部屋にはいると、メガネの男性が座っていた。品のいい上質そうなスーツを着ている。
男性は俺の顔を見るなり、言った。
「山路君だね? 久しぶり」
俺はその顔に見覚えがあった。
この男は杉山元吾。
大学の同級生だ。
ごくり。
唾を飲み込んだ。
コイツだけには会いたくなかったわ。




