第41話 欲望
「ただいまぁ」
俺は玄関先に入るなり座った。
身体がどっと重くなる。
まるで泥濘にでも浸かっているみたいだ。
ふわっ。
背中に心地よい温もり。
桜藍がくっついてきた。
「お疲れさまです」
粒の揃った、綺麗な声。
ゾワッ。
身体に突き上げるような感覚。
桜藍の手首を掴んで、そのまま押し倒したい衝動に駆られた。
でも、この衝動の根底にあるのは愛情ではなくて、ただの欲求、種の生存本能。
『桜藍がいい』ではなくて『桜藍でいい』。
そういう欲望。
すると、桜藍が俺を心配そうに覗き込んできた。
——全然ダメだろ。
優しい桜藍に、すごく失礼だ。
俺は桜藍の頭をポンポンとした。
「いつもありがとう。桜藍が居てくれるから、頑張れるんだよ」
すると、桜藍は跳ねるように立ち上がった。
「そう言ってもらえると嬉しいです。今日は、春馬さんの好物のトンカツです」
トンカツが好物だなんて一回も言ったことがないのだけれど。いつのまにか、そういうことになっているらしい。
むしろ、胸焼けしそう。
お風呂から出ると、味噌汁の匂いがした。
桜藍が、テーブルにお皿を並べてくれる。
最近は、会社であったこと桜藍に話すようにしている。少しカッコ悪いことでも、できるだけ話したい。
2人で食事をしながら、今日あったことを話した。
すると桜藍は頬を膨らませた。
「その課長さん、良くないと思います! 面倒なことばっかり、春馬さんに押し付けて」
桜藍は、いつも俺の味方をしてくれる。
すごく有難い。
でも、時々、ふと思うのだ。
これが夢で。
本当の俺は、まだあの薄暗いワンルームでうずくまっているのではないか。
俺は首を横に振った。
思考が低空飛行している。
なんでだろう。
すごく嫌なことがある訳ではない。
池田課長も永瀬課長も。
タイプは違うけれど、何か聞くと、自分の手を止めて、こちらを見て答えてくれる。
前の職場は違った。
質問しても上司は手を止めてくれない。面倒くさそうに言うのだ。
「それくらい自分で判断しろ」
そして、分からないまま進めて失敗すると「なんで聞かなかったんだ」。
だから、どちらの課長もきっと良い上司だ。
俺の知らないことを沢山知っている。
あぁ、そうか。
これは、敗北感だ。
ムギュ。
口にトンカツを押し込まれた。
「春馬さん。暗い顔してますよ」
桜藍は言うと、自分もトンカツを食べた。
「同じ箸なんだけど」
俺の言葉の数秒後、桜藍は耳まで真っ赤になった。
「春馬さんっ。なんか今日は暑いですね。あっ、わたしもお話あるんです」
「なに?」
「学校で三者面談があるらしくて。パパもママもいないから、あの。その。……春馬さん、来てくれませんか?」
桜藍の言葉に、低空飛行の思考が、ギュイーンと急上昇する。
俺を頼ってくれることが、すごく嬉しい。
だから、俺は即答した。
「うん。もちろん行くよ」




