第39話 無傷
挨拶回りが終わると、課長が戻ってきた。
「どうだった?」
「いや、隣の女性に噛みつかれましたよ」
「へぇ。その子、きゃわいいの? 何歳?」
課長は両手の人差し指で、俺を指差した。
「さぁ。21,22歳くらいだと思います。金髪で、まあ、可愛い方だとは思いますけど」
「まじかぁ。くそっ。自分でいけば良かったぜ」
後悔しますよ、と言おうと思った。
でも、この人は多分、噛みつかれてもノーダメージだ。
課長はスマホの時計をみた。
「14時。そろそろリフォーム業者がくる頃か」
「課長、なんで腕時計じゃなくてスマホで時間を?」
秒単位で正確な時間を知りたいのだろうか。
すると、課長は髪をかき上げた。
「だって、この時計、時間のところに棒しかないし、ダイヤが邪魔で時間が見づらいんだよ」
なんでそんな時計を買ったのよ。
この人。
しばらくするとリフォーム業者がきた。現場監督のような男性が1人だけだ。
「なにここ、くさっ」
男性の挨拶は、それ一言だった。
男性は手際良く、天井や壁を測っていく。
見ていると、男性に呼び止められた。
「ちょっとそこの君。ぼーっと見てないでコンベックス持って」
男性はメジャーの本体を俺に差し出した。
って、俺!?
俺が戸惑っていると、代わりに課長が受け取った。
「すいません。この子、新人なもので。私がやります」
課長はメジャーの下端を踏んで、壁を這わすように折り返す。すると、金属製のメジャーが重力に逆らって、迫り上がった。
課長は首だけ振り返って言った。
「これ、コンベックスっていうから」
大まかな測定が終わると、業者の男性が言った。
「ここ、コア抜きできるの? 躯体すれすれまで、はつりが必要になるけど」
コア? はつり? 躯体?
俺は意味も分からずに必死にメモをとる。
宅建を取る時に色々勉強したのに、2人の言葉が外国語みたいに聞こえる。
「いやいや、躯体に傷つけたら修理費じゃすみませんよ」
男性はフローリングに触れようとして、手を止めた。
「ってか、すごい染み。この匂い体液でしょ? 壁にも匂いついてるし、スケルトンじゃないと取れないと思うよ?」
この人も死体の匂いだと思ってるらしい。
「そこをなんとか。ケミカルと換気でどうにかなりませんかね?」
その換気が原因で、隣のねーちゃんに怒られたばかりなんですが。
業者の男性は言い捨てた。
「上張りして匂いが残っても、責任とれませんから」
打ち合わせという名の罵り合いを終えると、課長は笑顔に戻った。
「課長、簡単なリフォームで大丈夫なんですか? 匂いとか」
「んっ? 内装解体なんてしたら50はかかるからねー。50使って、売値が50万あがると思う?」
「匂いでクレーム来ませんか?」
「売る時に匂ってなければOK。現況有姿っていうでしょ?」
課長はニカッと笑って、俺に紙袋を渡した。
「と、いうことだから。山路君、管理人室に行って、コア抜きできるか聞いてきて。あぁ、コア抜きはコンクリの壁に穴を開けることね」
「壁にですか?」
「そう。ドリルでガガーって開けるの。あ、余ってる菓子折り持って行っていいから」
「ガガー」じゃねぇよ。
そんなのダメって言われるに決まってるじゃん。




