第35話 におい
桜藍の瞳が潤んでいる。
「あれっ。わたし、春馬さんのことお祝いしないといけないのに。あれっ。ご、ごめんなさい」
桜藍は走り去ろうとした。
「ちょっと待って!」
手首を掴む。
振り向いた桜藍は、泣いていた。
正直、こんなことで泣いてしまうなんて、夢にも思わなかった。
「離して!」
桜藍がいなくなってしまう。
その声を聞いてそう思った。
すると、言葉が自然に出ていた。
「俺、桜藍が卒業するまで彼女作らないから」
なんでこんなことを言ったのか自分でも分からない。自分の倍近い年齢のオッサンにこんなことを言われたって、きっと迷惑なだけだ。
「ごめん」
俺がそういうと、桜藍が立ち止まった。
「ほんと?」
桜藍の唇から力が抜けた。
——もしかして、桜藍、俺のことを?
桜藍が言葉を続けた。
「わたしを1人にしない?」
あぁ、そうか。
この子は、またひとりぼっちになるのが怖いのだ。
——ソチさんのあの目。
「……1人にしたくない」
桜藍は俺の袖をつまんだ。
「うん。許してあげます」
許す?
もしかして俺、浮気した前提になってるのか?
桜藍は口を尖らせた。
「それで、正直に告白してください。なにしてたの?」
「いや、マジでなにも」
桜藍は首を横に振った。
「何もなかったら、こんな匂いしないもん。ま、ま、まさか。エッち?」
なぜかカタコトだ。
「いや、本当に何も。居酒屋さんで、店員の子に身体をくっつけられただけだよ」
すると、桜藍が眉をつりあげた。
「『だけ?』身体をくっつけるのは、だけじゃありせんっ!」
「その匂い、イヤです。早くお風呂に入ってきてくださいっ!」
桜藍はそう言いながら、グイグイと俺の背中を押した。
ザザーン。
俺は風呂に深く身体を沈めた。
「それにしても、桜藍に、あんな謎属性がついてしまうとは。いや、でも、嫉妬されないよりはいいのか? ほどほどのやきもち焼きは、むしろ好みだったり」
天井のタイルを眺める。
すると、ぽつりと水滴が落ちてきた。
「ほんと、競売部での数ヶ月はアッという間だったよな。色々あって濃すぎだよ」
ザバァ。
水面で右手を握った。
「スタートからあんな問題物件抱えちゃって、俺、次の部署でちゃんとやっていけるのかな……」
「やっていけます」
折れ戸の向こうからの声。
「桜藍?」
今日は追い出せる雰囲気ではない。
「春馬さんは頑張ってるから。やっていけるんです!」
「ありがとう。さっきはごめんな」
「……いつもの匂いに戻りましたか?」
俺は腕の匂いを嗅いだ。
石鹸の匂いがする。
「あぁ、たぶん」
すると、すりガラスの向こうで、桜藍が少し動いた。
「今の春馬さん。前よりもカッコいいですよ?」
「そう?」
「色々お話してくれるし、わたしもこの時間が好きっていうか……逞しくなったし」
「照れてのぼせそう」
「ふふっ。ちょっとだけ我儘いっていいですか?」
「なに?」
桜藍の我儘?
想像がつかない。
「遊園地に連れていってください、わたし、◯◯パークに行ってみたいです」
◯◯パークは人気のテーマパークだ。
季節のイベントにも力を入れていて、カップルの定番デートスポットになっている。
前に桜藍を誘ったら、『入場料が高いから行きません』と言われてしまった。
「もちろん。いいよ」
「やった、ほんと?」
そういうと、桜藍は脱衣所から出て行った。
遊園地か。しかも◯◯パーク。
何年振りだろう。
桜藍も俺なんかと一緒で、本当にいいのかな。




