第33話 結末
「こっちは、言質をとってあるんです。どういうことなんですか?」
「理想論じゃ何も変わらない。シェルターの準備、政界への根回し、補助金への便宜。金が湯水のようにかかるんだ」
俺は理事長を見た。胸ポケットには安そうなボールペンが挿してある。金をピンハネして懐に入れている様子はない。
理想だけじゃ回らない。
俺も今では、肌で感じている。
昔の俺は、物事の建前ばっかり見てた。
きっと、なんでも他人のせいにしてた。
——あぁ、だから俺は柚子に振られたのか。
思考が飛躍しかけたその時。
ピピピピピ。
スマホが光った。
会社からの着信だ。
「電話がなってるよ。出てください」
内山田に促されて、俺は席を立った。
電話は三条君だった。
「山路さん。そっちはどうすっか?」
「最悪だよ。胃が痛い。裁判になりそう。マジで俺、解雇されるかも……」
「俺が下っ端に逆戻りじゃないですか。それは困るっす」
能天気な三条君の声に、イライラした。
「んで、何の用?」
「あっ、そうっす。山路さんの物件の元オーナーからメールがきたんですよ。残置物放棄の合意書のが添付されてました」
社内メールを確認すると、合意書が添付されていた。
ふぅ。
これで残置物は何とかなるか。
「後はソチさんの方だな。ようやく出口は見えてきたよ」
席に戻ると、テーブルに一枚の紙が置いてあった。
ソチさんが言った。
「コレ、ワスレテタ。わたしカミもってた」
A3サイズのクシャクシャな紙に「賃貸借契約書」と書いてある。確認したが、青い文字で賃料や賃貸人も記載されている。
テーブルの上でシワを伸ばして読みなおす。
占有者じゃなく賃借人だったなら、話はまったく変わってくる。
解決のハードルも、一気に跳ね上がる。
……血の気が引いた。
ピー、ガタガタ。
コピー機の動作音がここまで聞こえた。
俺はテーブルのお茶を飲んだ。
もう冷たくなっていた。
その時。
『ニホンゴわからないからケイヤクショもない』
ふと、メイファの言葉を思い出した。
ここにきて急に契約書?
不自然すぎる。
——カマをかけてみるか。
「ソチさん。実はわたし、他の同居人の女性と接触してるんですよ。彼女から『貸主は日本語ができないから契約書を作れなかった』という話を聞きました。あなたの時だけ、急に日本語が分かるようになったってことですか?」
「そのオンナ、ナンテイうナマエ?」
迷惑がかかるといけない。
伏せた方がいいか。
「プライバシーにかかわることですので、言えませんが。色白の可愛らしい女性ですよ」
ソチさんは、膝を細かくゆすった。
「ソチさん。もしそれが偽物なら、警察沙汰になるかも知れない。その覚悟はありますか?」
ソチさんの額から汗が流れ落ちる。
すると、横で見ていた小山田に何か耳打ちした。
小山田が顎を撫でた。
「彼は契約書を盾にするつもりはありませんよ」
「小山田さん。貴方の掲げている理念も分かる。世の中が綺麗事じゃないことも。腹を割って話しましょう。弊社は既に他の住人に支度金を払っていて、予算がない。既に赤字です。だから、残念ながら金銭的な援助はできない」
「その女性にお金を渡したのに、ソチさんには渡せないっていうのは不公平じゃないか」
「ソチさんは、ずっとどこに居たんですか? 彼女は子供もいて、あの物件しか居場所がなかった。頼るNPOもなかった。だから、私どもも出来る手助けはさせてもらった。それだけです」
ソチさんの貧乏ゆすりが早くなった。
小山田が口を開いた。
「じゃあ、せめて明け渡しの猶予を」
「1週間」
俺は即座に答えた。
「1週間? 無理を言わないでください。せめて2ヶ月は……」
「では、1ヶ月の猶予を差し上げます。これが限界です。その代わり、ソチさんの私物は自分で持ち出してください。清掃もお願いします。それでよければ、これに署名してください」
俺は鞄から書類を出した。
書類には、引き渡し猶予の期間、残置物の所有権放棄、退去後は本件について一切の不服を申し立てない旨が書かれている。
小山田はソチさんの肩を叩くと、胸ポケットのボールペンを渡した。
ソチさんは汗を拭って、震える手で名前と日付を書いた。
青インクで書かれたその数字には見覚えがあった。
「では、小山田さん。ソチさんのことを、くれぐれもお願いしますね」
俺は席を立った。
NPOのビルから出ると、もう真っ暗だった。
俺は星の見えない空を見上げた。
「1ヶ月猶予か。痛いな。会社で賃貸借契約書の話をする必要はない……か」
なんか不動産業界に慣れちゃったな。
気づけば、唇の端が上がっていた。
俺は桜藍に電話した。
「ごめん、寝てなかった? これから帰るよ。そういえば、誕生日もうすぐだっただろ? 美味しいものでも食べに行こうよ」
本当は桜藍に用事なんてない。
ただ声が聞きたかった。
まいったな。
桜藍がいない毎日が想像つかない。




