第28話 感覚
俺の前には、エプロン姿の桜藍が座っている。
「もう0時近いけど、大丈夫?」
すると、桜藍は笑った。
「ふふっ、明日は土曜日ですよ?」
ああ、そうか。
最近、仕事ばっかりで曜日の感覚がなかった。
桜藍は弁当をつまんでいる。
エビチリに玉子の炒め物に焼売。
うまそうだが、ヘビーだ。
「春馬さん、このお弁当、すごく美味しいです」
「よかった。買ってきた俺が言うのもなんだけどさ、こんな時間にそんな重い物を食べて大丈夫?」
「あっ、太るとか言うつもりでしょ?」
桜藍は頬を膨らませた。
「胃もたれとか……」
「そういうのしたことないですよ?」
桜藍は首を傾げた。
「お、俺だって。高校の時は夜中にラーメンとか余裕だったし?」
女子高生には胃もたれは無縁らしい。
俺は言っていて少し悲しくなった。
すると、桜藍は立ち上がった。
「あっ、わたし、お酒を持ってきますね!」
俺はレモンサワー缶を受け取った。
「いや、酒は……。そういえば、父さん、レモンサワー好きだったよな」
「うん。よく仕事の後に、ここでカコンって缶を開けて、レモンサワーを飲んでました」
俺は缶を裏返しにした。
「って、これ消費期限が過ぎてるんだけど」
「それパパが残したのだよ」
桜藍の笑顔は、少し寂しそうだった。
(そういえば、結局、父さんと酒を飲んだことなかったな)
「まぁ、たまにはいいか」
カコンッ。
俺はプルタブを開けて、レモンサワーを一気に飲み干した。
空き缶をテーブルに置くと、桜藍がずいっと前に乗り出した。
「春馬さん、最近全然授業してくれないし。このままだと、わたし永遠に理想の女の子になれないと思うんです」
「ごめん、最近、仕事ばっかりでさ。ごめんね」
桜藍は手を横に振った。
「あっ、イヤじゃないんです。春馬さん、すごく打ち込んでるっていうか」
たしかに、仕事に没頭するこの感覚。
すごく久しぶりかも知れない。
「部長は変な人だし、大変だけどな」
桜藍は頬杖をついてクスクスと笑った。
「ふぅーん」
「それで、どうしたらいい?」
「あのね、雑誌で『ドキドキするシチュエーション特集』っていうのを見たんです」
「うん」
「そういうのって、初めてだと流されちゃうかも知れないじゃないですか。春馬さん、そういうのは良くないって言ってたし」
「まぁ、確かに」
「だから、その状況を再現してもらって、免疫をつけておきたいんです」
とんだ茶番だ。
正直断りたかったが……、桜藍と目が合った。
不安そうに俺のことを見ている。
(最近、あまり話もできてないしな)
俺は茶番に付き合うことにした。
「分かった。どうすればいい?」
「こっちに来てください」
桜藍はリビングの白壁に寄りかかった。
「春馬さん。わたしの前に立って、右手で壁をドンとしてください」
「え?」
「これ、『壁ドン』っていうらしいんです。よろしくお願いします」
壁ドンって、俺が高校の頃からあったぞ?
なんだか随分と情報が古い気がするが。
たしかに、身持ちが固いのは、理想の女の子の条件だ。
桜藍はどうだろう。
さて、お手並み拝見だ。
ドンッ。
俺は桜藍の前に立ち、壁を叩いた。
右手に壁の衝撃。
桜藍はつま先立ちになった。
目を閉じて、口をすぼめる。
(えっ?)
これ、抵抗する練習なんじゃないの?
俺は固まった。
本当の無音。
この家には2人きり。
久しぶりに飲んだせいかな。
頭がクラクラする。
すると、桜藍が薄目を開けた。
「……続きは?」
「しないよ! 終わり終わり」
「ちぇっ。リアリティ不足です」
「大人を揶揄うもんじゃないよ」
「じゃあ、『バックハグ』は?」
「……しないから!」
「これじゃあ、いつになっても理想の女の子になれないよ」
桜藍は身体をゆっくりと左右に振った。
「ばーか。ゆっくりでいいんだよ」
その後は2人で笑った。
ずーっと笑って、笑い疲れた頃に桜藍が言った。
「春馬さん。わたし、面白い映画を見つけたんです。蜘蛛も見つからないし、一緒に観ませんか?」
——そう、大人になるのはゆっくりでいいんだよ。




