第26話 望み
部長は唇の泡を指で拭って嗅いだ。
「分かった。好きにしろ」
「ありがとうございます。では、すぐに退去費用の申請を出しますんで」
「でも、俺に責任を押し付けるなよ!」
部長はそう言って、手を払った。
自分のデスクに戻ると、もうみんな帰っていた。俺は鞄を机に放り投げた。
「責任を取るのがアンタの仕事だろ! ったく、課長がいなくなった途端にこれだよ。俺らすげー助けられてたんだな」
「あっ、そうだ」
俺は三条君に電話した。
「今、家? 仮住まい物件、どうだった?」
「ダメっす。あいつら多分、物件を隠してるんです。それよりも、どうしてくれるんすか! 彼女の誕生日なのに遅刻して、めっちゃキレられてるんすけど」
「ごめん、今度、埋め合わせするからさ」
彼女さんの誕生日だったのか。
(悪いことしたな)
あれっ、桜藍の誕生日っていつなんだろ。
帰ったら聞いてみよう。
申請書を作って、稟議にまわす。
「これで2、3日で金は用意できそうだ。すっかり遅くなっちゃったな」
会社を出ると、21時半だった。
「まだ電車はあるし、あっちも今日のうちに確認しとくか」
俺は駅前の中華屋に行った。
三条君が弁当を買っている店だ。
ここは夜はお酒も出していて、結構繁盛している。中国人客が多く、いつも外国語が飛び交っている。
入り口の横には紙が貼ってあった。
今回のお目当てはこれだ。
「良かった。思った通り、寮付きだ」
俺は笑ってしまった。
「ったく、俺は何をしてるんだよ。お節介もいいところだぜ」
ガラッ。
ガラスの引き戸を開ける。
「まだ飯って食えます?」
珍しく今日は、空いていた。
中国人っぽい女性店員達が一斉に俺を見たが、すぐにまたスマホをいじりはじめた。
ふわっとシナモンのような匂い。カウンターには大瓶の紹興酒や八角などの香辛料が並んでいる。
俺は丸椅子に座ってメニューを開いた。
すると、すぐにオーナーのお婆ちゃんがやってきた。
「夜にくるのは珍しいね。相棒のイケメンは?」
お婆ちゃんもイケメンが好きなのか。
世知辛い世の中だ。
「今日は帰りましたよ。ええっと、野菜炒め定食で。それと持ち帰りの弁当ってできますか?」
「へいよ!」
カウンターの中年男性が威勢よく返事してくれた。
「隣駅にも店出したんだって? 景気いいね」
俺はオーナーのお婆ちゃんに話しかけた。
オーナーお婆ちゃんは笑顔になった。
「お客さんのおかげだよ」
お婆ちゃんは日本に来て長いそうだが、まだ言葉の端に中国語訛りが残っている。
俺が息子に孫に似ているとかで、このオーナーさんは、いつも気さくに話しかけてくれる。
「オーナー。外の求人貼り紙って、まだ募集してるの?」
「してるよ。最近はなかなか人が集まらないんだよ」
「へぇ。寮もあるみたいだし、給料も安くないのにね。英語、中国語大歓迎。国籍不問って書いてあったけれど、本当?」
「あぁ。そうだよ。最近は外国人のお客さんが多いからね」
俺は声のボリュームを下げた。
「あのさ、1人……面接を受けさせて欲しい人がいるんだけど」
すると、お婆ちゃんはギロリと俺の顔を覗き込んだ。凄みのある視線。
ドクンと心臓が鼓動する。
俺は何でこんなことをしてるんだろう。
あぁ、そうか。
——俺はきっと、桜藍に胸を張りたいんだ。




