第129話 送別会
次の日の朝。
唇に残る葛城の感触。
起き抜けに、俺は下唇に触れた。
葛城にキスをされてから心臓がドキドキして。
でも、その事を葛城には伝えなかった。
目を閉じると、改札に入って行く葛城の後ろ姿がはっきりと思い浮かぶ。
悲しそうな顔をして。
でも、最後は笑顔で手を振ってくれた。
「もっとちゃんと名前を呼んであげれば良かったかな」
毛布の中で膝を抱えた。
♦︎
その日の午後。
予備校の説明会に来ていた。
講師が教卓に両手をつく。
「それですから、予備試験ルートの司法試験のために必要と言われている勉強時間は7000時間程度で……」
1日中勉強しても、2年近くかかる。
あまりモタモタしていると、桜藍が大学を卒業してしまう。できれば、今年の予備試験に受かりたい。
片手間じゃ無理だ。
幸い、インセンティブと退職の一時金があるし家賃もかからない。贅沢をしなければ、しばらくは生きていける。
俺は、予備校の通信コースに申し込んだ。
♦︎
帰り道。
三条君が食事に誘ってくれた。
送別会ということらしい。
テーブル席の正面には三条君。
その横には亜梨沙がいる。
「お疲れ様っす!」
三条君は生ビールを手に持った。
亜梨沙はオレンジジュースだ。
「春馬っち、久しぶり〜」
亜梨沙は、少しだけ色白になった。
「子供、いつくらいの予定なの?」
「年末かな」
亜梨沙は髪をかき上げた。
心なしか、雰囲気が柔らかくなった。
「そっか。おめでとう」
「ありがと」
亜梨沙は気まずそうに笑った。
「ところで、山路さんはこれからどうするんですか?」
三条君の顔が赤い。
「しばらくは、予備校に通って試験に集中しようかな」
「ふぅーん。でも、なんで司法試験なんですか? 別に他のことでもよくないっすか?」
「たしかにね」
俺は、軟骨唐揚げを口に放り込んだ。
「だって、桜藍ちゃんに弁護士になってって言われた訳じゃないんでしょ?」
ビールを飲んだ。
泡が喉を通って、身体の中に滑り落ちて行く。
「三条君のおかげだよ。亜梨沙と付き合うからって、また将棋やってるじゃん。俺も同じだよ。桜藍と向き合う前に、自分の中のやり残しに向き合いたいなって。ま、相当なブランクもあるし落ちるかも知れないけど」
「俺と同じっすね」
「いやいや、三条君は必ず成し遂げないと。子供も産まれるんだろ?」
「そうっすね。やるしかないっす」
「そう。やるしかないんだよ」
「ところで、山路さん。葛城ちゃんと付き合わないんですか? 藍ちゃんが大学を卒業して帰ってくるの5年後とかでしょ?」
「そうだな」
「葛城ちゃん、山路さんのこと大好きじゃないですか」
「見ててわかるの?」
「分かりますよ。葛城ちゃんと話しても『先輩の話』ばっかりですもん。山路さんだって、あの子のこと好きなんでしょ?」
俺は言葉がすぐに出てこなくて、ビールグラスを眺めた。グラスの露がテーブルに落ちる。
「そうだけど。分かるけれど、それってやっぱ違うじゃん。うまく言えないけど、違うんだよ」
葛城のことが好きだから。
好きだから俺は、改札に消えて行く葛城を引き止めなかった。
「ふぅーん。そんなもんですかね。って、イタタタ!」
三条君が足を押さえた。
亜梨沙がつねったらしい。
「あーちゃんは、余計な事を言わない。それじゃ、桜藍ちゃんも葛城さんも可哀想でしょ」
「でもさ」
「何? 春馬っちは葛城さんを傷つけたくないから、追いかけないんじゃん」
その話を聞いていて、唇が歪んだ。
今の俺は、どんな顔をしてるのかな。
その数日後。
葛城から電話がかかって来た。
「あのやっぱ俺さ……」
「分かってますから。それ以上は言わなくていいですから。整理ができるまで、ちょっとだけ手伝ってください」
そんな感じで、時折り電話がくる。
出たり出られなかったりで、そのうち頻度が減っていき。全く連絡が来なくなったと思ったら、また来たりする。
その度に、少しだけ心がチクリとして。
寄せて返す波みたいに。
段々と連絡が来なくなった。




