第115話 柚子
銀行の最寄り支店。
「山路課長ですか? 6,500万円。指定口座への着金を確認しました」
会社の経理から連絡が入った。
封筒から部屋の鍵を出して宮園さんに渡した。
鍵を受け取ると、宮園さんは笑った。
その顔を見ていると、俺の唇も綻んだ。
司法書士が書類の不備がないか確認する。登記書類と重ねた印鑑証明をパラパラ漫画のように何回かめくると、頷いた。
「では、手続きは以上です。この度はありがとうございました」
頭を下げて宮園さんを見送った。
「無事に引き渡せましたね」
視界に葛城の足首が入った。
「そうだな。いつも大変だけど、今回は特級クラスの大変さだった」
「打ち上げいっちゃちますか?」
葛城は、飲み物を飲むような所作をした。
「まだ昼過ぎだよ? さすがにそれはない。会社に戻るぞ」
「へーい」
葛城がトタトタと追いかけてくる。
会社に戻ると、専務に肩を叩かれた。
「山路君。引き渡しはできたかね?」
「専務のおかげで無事にできました。ありがとうございました」
「そうか」
えらくご機嫌だ。
この前のサービス残業で機嫌が悪いと思っていたので、意外だった。
「専務、どうしたの?」
「課長の物件で専務が工事したらしいじゃないですか?」
「そうだけど」
「その件でリフォーム部にクレームを入れて、リフォーム代を下げさせたらしいですよ」
「ちなみに、いくらくらい下げさせたか知ってる?」
「ドヤ顔で、120万って言ってましたけれど」
「12,530円の部材費で120万も下げさせたの?」
チンピラの言いがかりみたいだ。
「え。12,530円? なんかかなりの部材代を立て替えたみたいなこと言ってましたけれど。あと、他のリフォームにも文句を言ったみたいです」
なるほど。
経費が120万も減ったのなら、あのご機嫌にも納得がいく。
すると、また肩を叩かれた。部長だ。
「山路君。無事に物件が売れたみたいで僕も安心したよ。指値を受けたのは英断だったね」
少し媚びるような声。
『どの口がいう』
そう思ったが、俺は何も言い返さなかった。
機嫌がいいなら、それでいい。
「先輩、部長に何か言われました?」
葛城が俺のデスクに手をついた。
「ああ。『売れてよかったね』って言われたよ。なんだかやけに機嫌がいいな」
「ですよね、気持ち悪いです。わたしなんて、『これからもよろしく』って言われたんですよ? よろしくしませんから」
葛城はベーっと舌を出した。
『これからもよろしく』?
異動の話はなくなったはずなんだけど。
なんなのかな。
少しだけ違和感。
まあ、今日は俺も気分いい。
帰りに焼き鳥屋に行くことにした。
たまには、一人酒もいいだろう。
「かんぱーいっ」
葛城がビールジョッキをコツンとぶつける。
「……、葛城なんでいるの?」
「ひどいっ。先輩が言ったんじゃないですか。『今日のデートは焼き鳥屋だよ。ハニー』って」
「誰だよ、その頭の悪そうなヤツ。はぁーっ。1人で飲んで帰るつもりだったんだがな。まぁ、いいや」
「そうですよ。袖振り合うも多生の縁って言うじゃないですか」
葛城はタッチパネルで色々と注文した。
「多少じゃないだろ。なんか葛城といる時間が異様に長くないか? 正直、そこらのカップルより全然長いと思うんだけど」
「たしかにそうですねぇ。週末もたまに会うし、結構、夜ご飯も一緒に食べるし。お昼なんてほぼ毎日一緒」
「週末は休日出勤で、だけどな。つかさ、葛城もこんなアラサーのオッサンに気を使う必要ないんだぜ? 彼氏とかいないの?」
「いないに決まってますし。分かって聞いてるなら、先輩、相当に性格悪いですよ」
葛城は鶏もも串にかじりついた。
「いや、普通にいないのが不思議なんだよ」
「ふぅーん。わたしたちいつも一緒にいるじゃないですか。帰るの面倒だし……、一層のこと一緒に住んじゃいますか?」
葛城はそう言って、俯いた。
心臓がトクリと動く自覚。
「いや、俺には桜藍」
「だから。桜藍ちゃんがいない間だけでもいいですから!」
葛城の声のボリュームに、周りの客が何人か振り向いた。
「おいおい……」
すると、葛城は舌を出した。
「なーんて。そんなこと言ったら引きますか?」
「引きはしないけど」
「でも、わたし。ちょっだけ不機嫌です」
葛城は口を尖らせている。
「え?」
「『このは、頑張ってて偉いぞ』って言って頭を撫でてください」
葛城が頭をこっちに向けた。
(こいつ、さっそく酔っ払ってるのか?)
周りの客の視線が痛い。
撫でてやれよという無言の圧。
俺は自分の手の平をみた。
アルコールでピンクになっている。
「それくらいなら」
葛城の頭に手を伸ばした。
……あとちょっと。
その時。
「……春馬?」
聞いたことがある女性の声が聞こえた。
耳に慣れた響き。
見上げると柚子だった。
浦見柚子。
去年、俺をゴミ屑のように捨てた女。




