第112話 契約
1週間後。
△△不動産。
「重要事項についてご理解いただけましたら、ここに署名と押印をお願いします」
山田さんに促されて、宮園さんはサインをした。ペン尻の動きを眺めていると、眠くなってくる。
なにはともあれ、無事に契約完了だ。
「ふぁーあ」
あくびをしていると、山田さんがこちらを見た。
「緊迫感がない顔をしないでください。ちゃんと引き渡すところまでが、案件ですから」
宮園さんが頭を下げた。
「山路さん。値引きの件では、ありがとうございました。引き渡しまで宜しくお願いします。あっ、家具の採寸をしたいので、帰りに物件に寄ってもいいですか?」
「どうぞ。まだ鍵はお渡しできませんので、山田さん、お手数なんですが、付き添いをお願いできますか?」
「おやすいご用です。……くれぐれも引き渡しの件、宜しくお願いしますね」
山田さんは俺の肩を叩いた。
約定の引き渡し日は、3月11日だ。
宮園さんの株の現金化がスムーズだったらしく、週明け早々の引き渡しになった。
帰り道。
歩いていると、葛城が俺の前に回り込んだ。
「先輩っ。あとは、引き渡すだけですね」
「あぁ。リフォーム部の動きが良くないからな。先週も何度も確認してさ。『終わった』って言質とるまでは、ヒヤヒヤだったよ」
「あと少しだけだったのに〜。愚鈍ですね」
「『愚鈍』って、すごい表現だね、まぁ、電話口で『すぐにできる』と言われてから随分経つし、さすがに終わってるでしょ。それよりも部長はその後どう?」
「特に嫌がらせとかはされてませんよ。先輩の方は?」
「むしろ、普通すぎて怖いくらいだよ。どういう神経をしてるんだろ」
△△不動産は繁華街にある。
歩いていると、パチパチと脂が焼ける音がして、芳ばしい匂いが漂ってきた。
(腹減ったな)
「きゅるるる」
葛城がお腹を押さえた。
耳の縁まで真っ赤になっている。
「腹へったの?」
「お昼抜きでしたし」
「あの匂いを嗅いでると、焼き鳥モードになるよな」
俺は時計を見た。
『18:46』
今から戻っても定時過ぎか。
顔をあげると、星のない夜空。
少しだけ清々しい気分だ。
「葛城。焼き鳥でも食っていかない?」
「おごりですか?」
葛城の目が輝いた。
♦︎
案内されたのはカウンター席だった。
コンロの上では、鳥串から煙があがっている。
炭の匂い。
葛城がビールジョッキをテーブルに置いた。
「そういえば、この前のAI査定部って、本当にできるんですか?」
「らしいよ。他社もどんどん業務をAI化してるからね。うちも乗り遅れるな〜ってことらしい」
「へぇーっ。なんかカッコいいですね」
「そのうちイヤーカフ型のAIデバイスとかつけてさ」
「あーっ、それ未来っぽいかも」
俺は、耳にイヤフォンをつける動作をした。
「AIの音声で『生体認証:OK。エンハンサー:葛城このは主任 確認しました』みたいな?」
葛城が笑った。
「先輩、アニメの見過ぎですよぉ。それにそんな未来でも主任なんて、夢がなさすぎます」
「ごめんごめん」
なんとなくの沈黙。
少し気まずい。
すると、スマホが光った。
山田さんだ。
「え?」
思わず声が出た。
「どうしたんですか?」
「いや、山田さんからメッセージで、物件の内装が終わってなくて、宮園さんが不安がってるって……」
♦︎
「悪いな。バタバタさせちゃって」
今日は金曜。
週が明けたら、すぐに引き渡しだ。
食事を手早く済ませて、物件に立ち寄ることにした。
物件のエントランスを通って、エレベーターに乗る。玄関ドアの前に立って、みあげた。
(頼むよ、ほんと)
ガチャ。
ドアを開ける。
早速の違和感。
清掃に入った様子がない。
ブレーカーを上げる。
「えっ」
すぐに腰を下げて、部屋を見渡した。
シューズボックスの下、フローリングの隙間、建具の亀裂。
この前と全く同じ状況だ。
巾木も曲がったまま。工事が終わってないどころか、何もしていない。
あり得ない。
俺はすぐにリフォーム部に電話をかけた。
「あの。XXX号室のリフォームの件なんですが」
「はぁ?」
この気怠そうな声。
最初に確認した時の担当者だ。
「リフォームの工程表で『完了』になってるのに、内装が終わってないんですが」
「なら、見たままでしょ」
「いや、最初に確認してから10日近く経ってるんですよ? こっちは何度も確認しているのに」
「あー、大丈夫。完了ステータスになってるなら、すぐに終わりますんで。じゃ」
ガチャ。
受話器を戻すような音。
「ちょっと待って。引き渡し11日なんですが。本当に大丈夫? 責任とれるんですか? ちょっとアナタの名前を教えてください」
「ちっ」
舌打ちの音。
「なっ……」
電話の向こうから、ガサガサと何かを引っ張り出す音がした。
「ちょっと上司に確認しますんで」
電話が保留音になった。
能天気な保留メロディに苛々する。
「お待たせしました。えっと、その物件は、4月中旬の完成ですね」
「はぁ? あり得ないでしょ。なんでそんなに時間がかかるの」
「いや、部材の発注が来月になるから。どうにもなりませんよ」
「だってあなた、この前、数日で終わるって言ったよね? それに昨日の人は『終わってる』って」
「は? それ私じゃないですよ。人違いじゃないですか? じゃあ、もう切りますんで。ブツッ」
電話口からはツーツーという音。
首筋が震えて、力が抜けていく。
ドサッ。
バッグが手から滑り落ちた。




