第109話 パンプス
「おはようございます」
スカートスーツの葛城は、足取りが軽い。
俺の方は、本当は会社がイヤすぎて欠勤したかった。だが、葛城に「守るとか言われたのに、早速、わたしは1人ですか」とか言われ、俺も仕方なく出社した。
「先輩、この靴、すごく履きやすいです」
あの後、靴がない葛城に、パンプスを買ってあげた。ずっと使えるのがいいとか言われ、結局は高いパンプスを買わされた。
向こうの方から、葛城の元気な声が聞こえる。
「ま、安いものか」
俺は、自分の口が綻んでいることに気づいた。
「おはよう」
部長が来た。
頬に大きな絆創膏を貼っている。
心の中がザラっとして指先に違和感。
俺の指先は、微かに震えていた。
部長は葛城に気づくと、目を逸らした。
そのまま午前まで、全く話しかけられなかった。
「先輩。部長が優しいです。一応、反省してるのかな?」
葛城は首を傾げた。
「単に自己保身の様子見かと。俺の方は無視されてて不気味だよ」
「いつもは、すぐにイヤミとか言ってくるのにね」
露骨に攻撃されるよりはマシだが。
それはそれで怖い。
これから指値についての会議があるから、尚更だ。
「……先輩。大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。でも、宮園さんにも迷惑がかかるし、やることはやらないと」
トントン。
俺は資料をまとめて、クリアファイルに入れた。紙の音がいつもより乾いて聞こえる。
「きっと大丈夫です。部長、わたしにあんなことしたんだもん。殴ったことだって騒げるはずないし」
「お前もしかして……」
(俺のために騒がないのか?)
俺は首を横に振った。
気持ちを落ち着けろ。
「葛城。そろそろ行ってくるわ」
「春クン。頑張ってね」
葛城は、俺の反応をみて笑った。
廊下を歩きながら、状況を整理する。
あれだけ『指値は受けない』と専務から念を押されている。それなのに俺は、480万円もの指値の許可をもらわないといけない。
しかも、先日、部長を殴った。
だから、部長の助けは望めない。
最低限、部長に主導権を握らせないこと。
勝ち筋があるとしたら、それだけだ。
会議室の扉の前に立ってネクタイを整える。
何度か手をグーパーしてから、ドアノブを掴んだ。
「失礼します」
会議室の中に入ると、目の前には専務と部長。
部長は俺を見るなり、眉をひそめて苦虫をつぶしたような顔になった。
専務は、腕を組んで目を閉じている。
「……というわけでして、6,980万円で売るには、3月中の先行引渡しをする必要があります。ですが、6,500万円まで下げられれば、即金で代金を受け取れます。如何でしょうか?」
俺は事情を説明した。
すると、専務の目が開いた。
「いかがって? 480万円の指値を受けろと?」
「そういうことになります」
バンッ。
専務はテーブルを叩いた。
「君、それ本気で言ってるの? あんなに念を押したのに?」
「……すいません」
専務は爪を立てて、ネクタイの上から胸のあたりをかきむしった。
「温厚な私だがね。こんなに腹がたつのは久しぶりだよ」
「ですが」
「はあーっ」
専務の大袈裟なため息。
「でも……」
「正直、業務命令違反ものだよ。これ以上、山路君と話していると、血圧が上がって倒れそうだ。部長、続きを話して」
「畏まりました」
部長は目を細めた。
「現場を把握してる君なら、そのなんていうの? 山路君のいう事情も理解できるでしょ」
「そりゃあもう」
部長の声に艶が戻った。
「そうね。山路君への対応も含めて、もう部長が決めちゃっていいから。ちゃんと理由も教えてあげて」
対応って?
減給? 降格?
解雇……はさすがに無理か?
俺の顔をみて、部長はニマーっと笑った。
「じゃあ、続きは私の方から」
俺は膝に手を置いて目を閉じた。
部長の声がかすかに上擦る。
「山路君には、部下の指導は任せられないと思います」
「えっ?」
俺のいちばん近い部下は、葛城だ。
部長が唇をこすると、端に泡が残った。
その泡が、ほんの微かに上がる。




