第103話 引渡
「え? 今日?」
部長は腕を組んだ。
「はい。私1人の物件は初めてだから、部長にお願いできたら安心かなって」
葛城のリップがぷるんと光る。
「ふむ。まぁ、山路君の方は、こんなすぐに決まるわけがないしな。今日は、このはちゃんにとっても私と出かけた方が有益だな」
顎を撫でる指先が、忙しなく動いている。
『こんなすぐに決まるわけがない』……か。
だったら、この人。
なんで一緒に来たがった?
「葛城。本当に大丈夫か?」
小声で聞くと、葛城は小さくピースサインした。
「小悪魔このはちゃんに任せてください!」
俺は時計をみた。
『12:51』
物件調査に多少時間がかかったとしても、この時間からなら危なくないか。
悪い、葛城。
今日だけなんとか乗り切ってくれ。
そろそろ出る時間だ。
でがけにトイレに入ると、個室から「シュッシュ」と何度もスプレーのような音がした。やたらミントの匂いが充満している。
手を洗っていると、個室が空いた。
出てきたのは部長だった。
部長は、俺の横で歯を磨きはじめた。
「分かってると思うけど、指値は受けないから」
「値引けば売れる場合でもですか?」
俺がそう質問すると、部長の顎が皺だらけになった。
「君も分からない人だね。レインズ未公開の新規物件だよ!? 元々利益が少ないのに値引きとかあり得ないから。専務も言ってたでしょ。これは決定事項なんだから、お客さんには先に伝えればいいじゃない」
泡立った歯磨き粉が、唇の端にたまっている。
「……分かりました」
内見前に念押しすることじゃないだろ。
こいつはバカか?
すごく苛々する。
「ま、頑張って」
そういうと、部長は歯磨き粉のチューブを絞って、歯ブラシに追加した。
……この人、大丈夫か?
同行はレンタル彼女じゃないんだが。
♦︎
13:00
物件前。
俺は山田さんと並んでいる。
お客さんは少し遅刻するらしい。
「今回はありがとうございます。それにしても動きが早かったですね」
山田さんは、紙袋を下げた手を揺らした。
「レインズに載せるまで5日しかありませんから。全力疾走ですよ!」
「ここで売れば両手ですもんね」
「そそっ。仲介料も2倍。はっはっは」
「ところで、今日のお客さんは、どんな人なんですか?」
「40代シングルの女性ですよ。会社員で勤務先は大手です。自己資金は4,000万の予定です。堅実な方ですが、嘘に敏感ですので……」
すると、山田さんは言葉をとめた。
「すみません! 遅れてしまって。はぁはぁ」
女性の声。視線を上げると、40代くらいの小綺麗な女性が立っていた。
「いえいえ。駅からの街並みはいかがでしたか?」
山田さんは満面の笑み。
「白山駅から来たんですが、途中にスーパーがありました。ちょっと寄り道したら迷子になってしまって。お待たせしてしまって、すみません」
「前回は車でしたからね。じゃあ、さっそく内見にしましょう。あ、こちらは山路さん。売主の社員の方です」
「あっ、わたしは宮園といいます」
女性は会釈をした。
仕立てのいいブラウスを着ているが、アクセサリーは最低限だ。バッグはハイブランドではないが、傷などはない。綺麗に使っている。
部屋の中に入ると、山田さんが案内を始めた。俺はその間に、各部屋をまわってリフォームの仕上がりを確認する。
「ステータス表では『リフォーム完了』になっていたけれど……」
確かに見える場所は終わっている。
仕上がりも悪くない。
だが……。
俺は膝をついて周囲を覗き込んだ。
備え付けのシューズボックスの下に壁紙が貼られていない。その他にも、巾木の曲がりやフローリングの隙間が複数箇所。
どれもパッと見じゃ分からない場所だ。
「まさか、さすがにこれで工事完了ってことはないよな?」
俺は物件から出てリフォーム部に電話した。
「あの△△マンションなんですけど」
「はぁ」
やる気のない返事。
「工程管理で、リフォーム完了になってるのに、見えない場所がちゃんと終わってないんですが」
「工程表で完了になってるなら終わってるでしょ」
「いやだから、終わってないから言ってるんですよ」
「あー、大丈夫。終わってなくても、数日で終わるから」
「ちょっと」
「ツーツー」
電話を切られた。
ガチャ。
ドアが開くと山田さんが顔を出した。
「お客様が聞きたいことがあるそうです」
きたか。
玄関を歩きながら、どんどん心拍数が上がっていく。
戻ると、宮園さんは壁を触っていた。
「お聞きしたいことがありまして」
「はい」
口の中が渇く。
「実は、事情があって引越しを急いでまして。できれば早めに入居したいんです」
「ご事情とは? 差し支えなければでいいんですが」
「ストーカー……です。家にいると怖くて。半年ほど前からホテル住まいなのですが、お金もかかるし不安で。色々と重なって精神的にまいってしまって。だから、できるだけ早く引っ越したいんです」
山田さんが心配そうな顔をした。
「元ご主人らしいですよ。そのストーカー。それは怖いですよね」
宮園さんは俯いた。
「はい。お恥ずかしい話です。それで、彼が3月になったら1ヶ月ほど海外にいくので、その間に引越しを済ませてしまいたいんです」
「なるほど。今は2月末だから……結構、タイトですね」
山田さんが口を開いた。
「宮園さん、ウチに来る前から物件を探していて、今月引き渡しの約束で物件を購入したらしいんですよ」
「はい。ですが、人が足りないとかで、直前になって引き渡しは6月になると言われてしまって。『約束が違う』って言ったら『入居後に工事を続けるので大丈夫です』って言われたんです」
宮園さんは床を見つめている。
「繁忙期ですしね」
山田さんは呟いた。
「入居後に工事をして完成では、やっぱり厳しいですか?」
俺の質問に、宮園さんの視線が泳いだ。
瞳に力がない。
「元夫の一件から男性が怖くなってしまって。家に男の人が入ってくるのが嫌なんです。また殴られたりカメラを仕掛けられるかもって思うと、涙が止まらなくて」
「それで、その物件はどうなったんですか?」
「彼がいない間に引っ越せないのなら意味がないから、契約を止めました」
宮園さんの唇が歪む。
「それは大変でしたね」
なるほど。
これも山田さんの動きが早い理由か。
宮園さんは片肘を抱き寄せた。
「あの……お部屋をみてたら、結構、工事が中途半端になってるところがあるんですが、これって追加工事があるんですか? 工事は3月中には終わりますか?」
宮園さんにとっては、3月中の引き渡しが絶対条件ということだ。しかも、追加工事は不可。
引き渡せなかったら、契約解除になりかねない。
俺は山田さんに耳打ちした。
「あの、契約した時点でレインズに登録するんですよね?」
山田さんは頷いた。
そうなると、契約が解除されるまでの間、うちの物件は『告知事項あり物件』として晒されることになる。つまり、めでたく売れない名物物件の仲間入りだ。
契約解除は、絶対に避けたい。
……どう答えればいい?
『嘘に敏感ですので……』
山田さんのアドバイスが脳裏をよぎった。




